悠久の片隅

日々の記録

<a href="http://ameblo.jp/fujiko-diary/entry-11354922707.html">自省録</a>

神谷美恵子聖なる声 (文春文庫)/宮原 安春

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「知識も、成功も、幸福も、私を満たしはせぬ。」

すごーく次元に差があるとしても、

私の心のうちもそんな感じ。

幸せさえ、

だから、なんなんだ・・・・・

自分の幸せは、

なんだか

もういいや(笑)

そこにこだわるなら、

毎日がくだらなく感じる。

それ(自分の幸せ)は、

何かの副産物程度でいい。

「書きかけのしごとがいくつもある。

しかし、完成できればよし、できなくてもよし、と考えられるようになった。

人生は、いつ終止符が打たれてもよいのだ。いつでも人生は未完成であろう。

しかし、人間でない者の眼からみれば、そのまま完成したものにちがいない。

幼くして、若くして逝った者の一生もまた完成したものにちがいないのだから」

これはマルクス・アウレーリウスの書から得た精神ではないだろうか。

神谷美恵子翻訳のマルクス・アウレーリウス『自省録』

自省録 (岩波文庫)/マルクスアウレーリウス

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今から2000年前のローマの皇帝マルクス・アウレーリウスが日々の内省をメモにして書き記したもの、

今でも世界でどれだけの人が心の書としているのだろう。

「罪を犯す者は自分自身にたいして罪を犯すのである。

不正な者は、自分を悪者にするのであるから、自分に対して不正なのである。」

「昔起った出来事をよくながめ、現在おこなわれつつあるすべての変化をながめれば、

未来のことをも予見することができる。

なぜならそれは必ず同様のものであろうし、

現在生起しつつある物事のリズムから離れるわけにはいかないであろうから。

したがって人生を四十年間観察しようと一万年観察しようと同じことだ。

これ以上なにを見ようか。」

「自分に起ることのみ、運命の糸が自分に織りなしてくれることのみを愛せよ。

それよりも君にふさわしいことがありえようか。」

ローマの皇帝が、日々自分自身を戒めている。

皇帝は、賢明に生きたが、それは苦難の人生であった。

「たとえ私と私の二人の子供が神々から見捨てられたとしても、これにもまた道理があるのだ」

子供を亡くしたことも、

道理であると言い切ってはいるが、

何回も何回も記しているのをみると、

道理と言いながらも悲しみは拭い切れず、何度も自分にそう言い聞かせ納得しようする様子が、

苦しいほどに伝わってくる。

これは、外に向かって言葉を発しているのではない。

一切が、自分自身に対しての自戒の念なのです。

2000年前であっても、世の中がどう変わろうと、人間の本質だけは変わっていない。

神谷美恵子マルクス・アウレーリウスの心の在りようをどんな思いで訳したのか、

そんなことにも思いを寄せながら、この書を読んでます。