悠久の片隅

日々の記録

<a href="http://ameblo.jp/fujiko-diary/entry-11360216267.html">祈り</a>

人間は 他人の不幸があって 自分の幸福がわかる

そういう存在というけど、

実際そうだと思うけど

でもそれって残酷・・・

北条民雄著『いのちの初夜』を読んだ。その他数作読んだ。

北条民雄は19歳でハンセン病を発症、隔離療養となり、23歳で亡くなる。

髪が抜け、

目がドロドロになり、

鼻が崩れ、

手が無くなり、

足が無くなり、

神経に入った痛みだけはあって、

喉に穴をあけて呼吸する。

その姿は人間でなく、生命だと いう。

発症したら、強制的に隔離され、

劣悪な環境の療養所で(療養というより収容に近い)

治る薬もなく

たいして痛みを癒す薬もなく

目も鼻も手も足も腐っていくことに耐えながら、死を待つ。

その姿と比べ、

今の自分に幸せを感じるなら、

幸せって残酷との裏腹に思う。

今は

遺伝でないことも、

感染力がほとんどないことも、

業病でないことも、

よく効く薬があることも、

全部理解されてはいるけど、

それは

不治の病であった頃の、差別と偏見の中で亡くなった方への少しは慰めになっているのだろうか。

少し足の遅い人もいる

少し知恵の遅れた人もいる(あえて知能障害といわない)

早い人がいるから、遅い人もいる

それは当たり前のことで

長生きする命もあれば

早世する命もある

生まれてきた命もあれば

生まれてこれなかった命もある

どっちの側かは たまたまなだけで そこには何も意味はない。

自分がどちら側でもありうる。

ものごと自体には 意味など無い

ひとりひとりが幸不幸を感じるだけで

ものごとの方では なんも思っちゃいない。

これはどの宗教にも当てはまることばで

でもそういわれても

目が見えなくなったら・・・

手を切断することになったら・・・

断種されたら・・・

どれか1つだけでも耐え難い悲しみなのに

それら全部が待ち構えてるだけの人生。

しかも世間から差別され、罪悪のように取り扱われ、遺骨すら引き取ってもらえない方もいた。

江戸時代には差別は無かったという。それは平等そのものが無かったからだ。

早い人がいるから遅い人がいる

幸せがあるから不幸せがある

暗いとか明るいとかいふことを、人々は何時まで言ひ続けるつもりなのであらうか。

もはやわれわれはかかる言葉を忘れてよい時なのではないのか。

 

幸福だとか不幸だとかいふことを、人々は何時まで言ひ続けるつもりなのであらうか。

もはやわれわれはかかる言葉を忘れてよい時なのではないのか。

 

新しい人間はもうこのやうな言葉は吐かないのである。

(北条民雄 頃日雑記より)

少しでも幸せだから、幸や不幸の話が出来るのだと、

私は耐えられないほどの不幸を背負ったことがないから、幸不幸のレベルで語ってしまうのだ。

ものごとに意味がないとするなら

この理不尽な報いを受けるべくことを、慰めるものはあるのか。

そう思ったとき、

私は、イスラム教を思い出した。

サウジアラビアでは弁護士はいないという

不当な裁きを受けた時困らないかと尋ねると、

「帳面につけてありますから」と言った

「誰の帳面?」と聞くと

「アラーの神の帳面につけてあり、プラスマイナスはあとで全部清算されるから大丈夫」と答えた。

この世で不利益なことがあっても

死んでアラーの神の裁きを受ければ極楽に行けると信じている。

逆にアラーの神を信じなければ、裁きを受け永遠の火刑にされ続ける。

地上の地獄より、死んでからの地獄のが遥かに長く辛いのだ。

世界の25%近くがイスラム教だ。とても多い。

現世で恵まれていないと感じる人がイスラム教を信じる気持ちがわかる気がする。

彼等にとってアラーは希望なのではないかな。

アラーの神にすがりつくことでしか、幸せになれない人がこの世には大勢いるのだと思う。

日本の震災で

水が出ない

電気がない

食料がない

家がない

大変だよと言いたいけど

普段からその状況の人たちは、世界に大勢いる。

日本で不自由だと感じるその現状を、その人たちにどう説明したらいいか私にはわからない。

イスラム教で、原理主義といわれる過激な行動に出る人たちは10%。

あとの90%は穏健派。

なにも皆が皆、自爆テロを目論んでるわけではない。

確かにイスラム教は、理解を超えた人たちではあるけれど、

誰でもどうにもならない悲しみを抱えてる、理不尽と思えることにも耐えている、

だからせめて死んでからは天国で幸せになれますようにと、

(人生は死んで終わりと思ってない。そこからが長いと思ってる。)

日々に祈りをこめる気持ちは、

祈りしかないから祈るので

信じることでしか救われないから信じるので

それを誰も否定はできない。

不治の病とされてた頃にハンセン病を煩った人たちも

絶望の中で

いい薬が出ますように。

病気が治りますように。

家族とまた暮らせますように。

宗教でなく、祈るしかないから祈って、そこにかすかな希望をもっていたと思う。

そして今

治るようになったし、差別もなくなった。

祈ること、信じること、人は結局最後はそれしかないんじゃないかな。神や仏がいようといまいと。

真摯な祈りはいつか通じる。心から私はそう信じたい。

北条民雄の作品は青空文庫でいっぱい読めます。