悠久の片隅

日々の記録

<a href="http://ameblo.jp/fujiko-diary/entry-11367265285.html">バラバ</a>

バラバ (岩波文庫)/ラーゲルクヴィスト

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バラバ(死刑囚)は、自分が死刑になると覚悟していたと思う。

それが、

罪人である自分は無罪放免となり、その代わりに無罪と思われるイエスが磔刑となった。

人は道理なく自分の犯した罪を赦されてしまった時、何を思うか・・・

死刑になるはずが、無罪放免。

これほど有り難いことはない。

でもその陰で、ひとりの罪無き男が磔になった。

それは自分のせいではないし、自分の力ではどうにもならないことだった。

バラバは、ゴルゴタの丘でイエスが磔にされ死んでいく様をじっとみてた。

イエスが裁かれる場面で、バラバは必ず出てくる人物ではあるけど、

バラバの心境を、私は1度だって考えたことなかった。

物語で主役はいつもイエスであるし、

裏切り者ユダの心境だって、何度も何度も考えたことはあるけど、

イエスの代わりにちゃっかり命拾いしたバラバの心境など

多分、(ラッキーな人)で通り過ぎてしまっていたのだと思う。

本当は誰もが主役で、誰の心の中だってそうやすやすとわかるものではないのに。

バラバは、本当にラッキーな人・・・

だけなのだろうか、

その後のバラバの人生はどうだったんだろうか、

というのがこの小説です。

つい、悲運な時の心のもちように考えはいってしまうが、

実は

身の丈に合わぬ幸運を拾ってしまう、

そちらも同等の重きをもって考えなければいけないのではないか。

バラバはイエスの代わりに釈放されたものの、

民衆も神も、罪人である自分を救って、イエスを殺してしまったのだから、

人も神も信じられない。

それに

愛を唱え続けながら、磔にされ惨めに死んでいくイエスは、正義感あふれるヒーロでも無かった。

でも、そんな惨めなイエスも、そのイエスに殉死する惨めな信者の姿も

決して死に屈服しないもの、

愛の為に死ねる者(その愛は、自分がもっとも大切な人への愛という意味ではない。)として、

バラバは畏怖と羨望をどこかに感じている。

だけどバラバは信仰心はもてない。

イエスを慕う人たちとも、

バラバの無事を単純に祝う人たちとも心のすれ違いを感じ、

誰とも心を共にすることが出来ない。

孤独なバラバ故、哀れな中で死んでいったイエスが心に宿ってしまったように思う。

お互い(バラバとイエス)孤独な者として、

イエスとの足枷を離すことは、ゴルゴタの丘以降、2度とありえなかったのではないかな。

あのゴルゴタの丘で、イエスが奇跡を起こすこと(救われること)を一番に望んでいたのは

バラバだったかもしれない。

でも神は、イエスを救わなかった。

自分もその時は、何も出来なかった。

だから今度こそ・・・

「おまえさんに委せるよ、俺の魂を」

バラバは最期まで「神を信じる」とは言えなかった。

そうではないが、心はイエスと共にありたいと願ったんではないかな。

信仰心は、人それぞれ。

この場合肝心なことは

バラバがイエスという男から何を受け取ったか。

そして

バラバから、私が何を受け取ったか。

著者が意図して書いたことと、私の受け取ったものは、違うかもしれない。

多分違う。

でも、この物語は好きだし、様々なこと考えた。

バラバの気持ちもっともっとわかりたいのが本心だけど。