悠久の片隅

日々の記録

<a href="http://ameblo.jp/fujiko-diary/entry-11370513097.html">個人的な体験</a>

個人的な体験 (新潮文庫 お 9-10)/大江 健三郎

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小説を読むというのは、

非常なエネルギーを使う。

そこがエッセイとは違う。

主人公バード(あだ名)の子供が生まれた。

産院の院長はいう

「現物を見ますか?」

「いいえ、見る前に説明してください。」

「外観、見たところ?頭がふたつあるように見えますよ、

ワグナーに<双頭の鷲の旗のもとに>というのがありますがね、それは驚きますよ!」

シャム双生児のようなもので?」

「いや単に頭がふたつあるように見えるだけですよ。現物見ますか?」

赤ちゃんは苦しいのかと尋ねるバートに医師は答える

「問題は苦しいという言葉の意味ですね。

この赤ちゃんは視力も聴力も嗅覚も、なにひとつ持っていないでしょ、

それに痛みを感じとる部分も欠落しているのじゃないかな。

院長の言葉でいうと、ほら、植物的な存在なんだから!

あなたは、植物が苦しむという考え方ですか?」

実際にはこんな医者はいないが、医師は絶望の話しかしない。

このように説明され、バードは生まれたわが子の衰弱死を願ってしまう。

バードだけじゃなく、私も・・・・・

バードは若い、考え方も何もかもまだガキだ。

だけど、私は分別ある考え方が出来るはずで、この世に授かった命の尊さだってわかる。

でも

双頭の鷲を思い浮かべて、

その姿で生きなければならない悲しみの方が大きくて、

この子を殺して、私も・・・

と、思ってしまう。

私は元々が

「この世に生まれてきたことが最大の悲劇」という考え方に同意してる人間なので、

そうなってしまうのだろうか。

単純に言えば、

人がつらい思いをしているのを見ていられない・・・

それだけのことなのだけど。

作中、カフカ(絶望名人)の言葉が出てくる

「子供に対して親のできることは、やってくる赤んぼうを迎えてやることだけです」

そして、バードも

結局は、

その赤ちゃんによってバード自身が大人へと育てられる。という結末に至る。

だからバードなんだろうね。

やっと飛びたてるようになったバード。

バードは、

仕事のことも、火美子(不倫相手)とのことも、アフリカへの夢も、結局は、自己からの逃避で、

「この現実生活を生きるということは、結局、正統的に生きるべく強制されることのようです。

欺瞞の罠におちこむつもりでいても、いつのまにか、それを拒むほかなくなってしまう、

そういう風ですね」と語る。

この作品は、終わり方にかなり批判があったようで、そのことを大江はあとがきに書いてる。

確かに、文学作品ならあの先は読者に委ねたと思う。

その余韻を読者は味わうもので、

正直、あの結末に違和感は大きかった。

でも、

作者が書きたかったように書くのが一番だ。私は支持する♪