悠久の片隅

日々の記録

小さき民のことば

心にひびく小さき民のことば

心にひびく小さき民のことば

書店にはあふれるほどの本がある。

毎月、数え切れないほどの新刊も出ている。

でも今日、民俗学の本を探したら、とても少ない。

備え付けの検索機で調べてみてもほとんどなかった。

もっと読まれないと、どんどん廃れていってしまうんだろうな。

アイヌの子どもが外出できるまで生長すると、

まず親が男の子にしつけるのは、川に小便をしてはいけない、ということである。

川の魚たちは水のきれいな処を棲処とし、そこに産卵する。

そこで小便で川の水を濁して魚の邪魔をすることはよくない、と教える。

女の子には、熱いお湯を地面にこぼしてはいけない。

地面に生きている多くの虫たちが死ぬことになるから、と教える。

私は領土問題で、日本が権利を叫ぶたび、アイヌの人たちのことを思ってしまう。

アイヌの人たちが愛し、大切に守ってきたものを日本人は力ずくで奪った。

自分たちが過去に奪った土地に対しては、

人は過ぎたことにしてしまえるのか。

心の痛みはないのか。


土地とは誰のものなのだろう。

生きている間、生きていく為に、間借りさせていただいている。

自分が死んだら元の形で返し、また次に生きる者の為にあるべきもの。

私はそのようなものなのではないのか。と、漠然と考える。

現実には資源の取り合いであり、

体面であり、

欲に固執した醜い争いでしかない。

それが大切な生きる術なのかもしれないが、

わたしなど、(もういい加減いいじゃないか・・・)と、思ってしまう。


司教の家の銀食器を盗んだ貧しいジャンバルジャンに、司教は唯一の財産である銀の燭台も差し出す。

それ以来ジャンバルジャンは善意の人となり、世の人々を助ける。

イエスが右の頬を打たれたら、左の頬を差し出せとは、多分このことを言うのだと思う。

この『小さき民のことば』の小さき民とは、聖書のことばで社会における弱者を表してるそうです。

この本は、弱者の届かぬ声を大切に拾い、後世に残そうとするものです。


アイヌの人たちは、川を奪われ、土地を奪われ、人間性をも奪われた。

アイヌ人は連れ去られ、女性は一生漁師など男の相手をさせられ、男性は過酷な労働で命を奪われ、家族とは永遠に会えず、

アイヌのとある地区では20年で人口が1/4にまでなったという。

これが和人(日本人)が行った拉致、強制労働で、文字をもたぬアイヌ人の悲しみの声は灯のような危うさながら

なんとか今に伝えられている。

拉致がどれだけ卑怯で残酷なことか、私たちは加害者でもある・・・・・


隠れキリシタンとは、私はてっきりキリスト教のことと思っていたけど

その教えは、本来のイエスの教えとは一線を画したものになっていた。

海に向いた急斜面の土地、その厳しい環境が、イエスの涙の谷であり、

ガリラヤの土地であり、心にマッチするものがあった故にイエスを受け入れ、

キリスト教迫害の250年もの間、聖書も司祭も教会も無い中で、

マリアは『お雪どの』と、なんとも日本情緒ある呼び名となり、

自分たちの風土から導き出した自分たちの信仰として、代々守り続けてきたようです。

彼等は神棚ももち、仏壇もあり、そしてマリアに愛を求めた。

250年・・・・・250年もの長き間、隠し守り通してきた思いは今も受け継がれている。

新しい文化は無条件で受け入れられるわけでもなく、その土壌あってのもので、

また自分たちの風土と馴染みながら人々の心に浸透していった。


「日本人を目撃するに、其の乱暴又甚だしと謂うべし。

本郡竜戴港に四、五十艘の漁船襲来し、漁夫等上陸して村内に入り、酒を飲みて代価を払わず、

裸体にして婦人を捕らえる等、実に言語道断に振舞ふるにつき、人民の訴願に依りて官吏を派し、

取り調べたるに無鑑札のものあり、又、二、三年前の旧鑑札を所持するありて、其の甚だしきに至りては

我が漁船を破壊し、又人の妻を船に引き入れて数十日の久しき間妄(みだ)りに淫欲を逞しふするあり。

吾人今官にありて見るに忍びず、京城政府と観察使に稟申すれども何の沙汰もなし、実に痛憤に堪えざるなりと。」

これは辺境の地を訪ね歩き、政治家でもあった笹森儀助が、朝鮮で見た日本人の卑劣な行為の記録で、

日露戦争以前に、このような行為がはっきり記載されてあることに驚きです。

戦争中に何があったかは定かでないし、私が考えてもわかりようがない。

でもそれ以前に、当然のことのようにあったこの事実が、心にも体にも尾を引いてることは確かで、

この事実は、この事実で、知らなければならないこと。


他にも石垣島に一生を捧げた灯台もりの話や、南の島々の役人による圧政や、お祭りなど、

民俗学を置き去りに出来ないものを感じました。

この本は昔の人々の詩情も多く、古典苦手な私にはわからないことも多くて、

それでもしがみつくように、読んでみたけど、むずかしいなー。


南の島は

石垣島西表島与論島に行ったけど、観光だけして帰ってきてしまった。

大切なもの・・・見てない・・・

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父の書庫に遠野物語があったと思うけど見つからなくて、

この本があったのでコチラも読んでみようと思ってます。

なんでこんな題名になってしまったのかわからないですが、やはり民俗学です。