ザディーグ、カンディード
- 作者: ヴォルテール,植田祐次
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 2005/02/16
- メディア: 文庫
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読了。
『この世は成り行き任せ』
あまりに体たらくなペルシャ社会に怒った精霊から、この街を破壊するべきか、否か、
ペルシャの実情を探るよう指示された主人公バブーク。
街を見て歩きながら、人間たちのあまりの悪どさに、こんな国は潰してしまった方がいいと思ったり、
よくよく見れば、悪の中にも善があったり、いい面、悪い面、もっている。
結局、精霊への報告は、
あらゆる金属と土と石のもっとも価値の高いものと低いもので合成された小さな彫像を作らせ、
これを精霊に届け、こう言った。
「このすてきな彫像がすべて金とダイヤモンドで出来てないという理由で、あなたは破壊しておしまいになりますか。」
『ザディーグまたは運命』
これは、アラビアンナイト風。
主人公ザディーグの不幸は、彼の幸福そのもの、とりわけ彼の人徳に原因があった。
良い行いをすればするほど、不幸な目に合うザディーグ。
人から妬まれないように、理性を働かせ行動するのに、意に反したことばかり起こる。
時代は啓蒙主義。
理性で幸せは掴めるはずなのに、まったくそうはいかない現実。
この世界は予定調和で出来ていて、ところどころの悪は、全体としての善へ導かれる為にある。
だから、これでい、いはずなのだけど、心に釈然としないものがある。
隠者(天使)と出会い一緒に旅をすることになるが、その途中、
天使は、誠実そうな哲学者の家を燃やし、親切な子供を川に溺れさせ殺してしまう。
天使は、全体から眺めれば、これも予定調和だという。
『人間はほんの小さな部分しか見えないのに全体を判断するのは間違っている』
哲学者は家の下に甚大な宝を隠しもち、
あの少年は、成長したら人殺しをしたという。
でも、それだからって、
予定調和で神がこのような操作をするなんて。
全体の善の為に、神が罪の無い子供を川に流すなんてこと・・・・・
結果的にこの物語で、ザディーグは幸せになり、天を祝福し、
『最善説』を肯定する形で終わっている。
死んだ子がいたことによって世の中が、善に向かう。
そのことも自然の摂理として考え、
すべての試練は、世の中が善に向かう為のものである・・・・・
神を絶対のものとすると、
神がすることには必ず意味があり、
その結果は善へ通じるものである。
矛盾する不幸を受け入れ、神を肯定するには、
世の中にこのような最善説が正当化されていたのだと思う。
この後書かれた『カンディード』も
ザディーグと同じように主人公カンディードが次々不幸に見舞われる。
ガリバーやドンキホーテのように、世界を巡りながら、次々災難が訪れる。
最初は、師に教えられた最善説、
「個々の不幸は全体の幸福をつくり出す。
それゆえに、個々の不幸が多ければ多いほど、すべては善なのだ」
を信じていたカンディードも疑問をもちだす。
これが神によってもたらされる最善なのだろうか。
この疑問は、ヴォルテール自身の疑問で。
自分がよかれと思ったしたことが全て裏目に出てしまう。
リスボンの街は壊滅した。
罪の無い子供が流され、建物につぶされた女たちを見ながら
「この世が神によって最善に配列されてるというのなら、その者たちはこの現状を見るがよい。」
と、ヴォルテールは叫ぶ。
ザディーグで、最善説を肯定したヴォルテールが、
カンディードでは、最善説を否定している。
もらった財産もすべて失い、
愛する女性は不幸と共に醜くなり、
自分の人生は最善とはいえないけど、自分の畑を耕すこと。
それが自分に出来ることで、自分のしなければならないことだと、
現実のみ肯定してこの物語は終わる。
悲観的になりそうな物語でも
ヴォルテールが書くと、滑稽になる。
残酷な話を、希望をもって読めるのがヴォルテールの魅力に思う。