悠久の片隅

日々の記録

春の嵐

スズメがチュンチュン鳴いていた。

姿は見えないけど、多分2羽。

冬の張り詰めた空気の中での響きと違うね。

まずは、昨日の嵐の残骸を片付けなければ。


玄関を掃きながら思う。

主婦というのは、ひたすら元に返す日々。その繰り返し。

掃除、洗濯、お片づけ、

やったことが何も積み重なってはいかない非生産部門

ご飯は作っても食べれば消えてしまうし、

掃除をしても、すぐまた汚れる。

掃いてもまたすぐ落ち葉だらけ。

でも、もしかしたら、

こうして日々元に戻すことが大切で

すべては地球から借りていて、使ったものは出来るだけ元に戻して一生を終えるのが

いいのではないかなって思う。

庭を掃きながら、雨後の空気の重たさを感じる。

お天気は良いけど、お布団を干すのはやめておこう。

こうして、なにげに主婦は毎日自然と向き合っている。

世の中は、生産部門ばかりに気を取られて、非生産部門が追いついていけてない。

親は子供にいう。

「使ったら片付けなさい。」

そうだ。

核廃棄物の処理も出来ないのに、核を使ってはいけなかったのだ。

自分で片付けられないものを使ってどうする。

子どもが核で遊んでいるようなものだ。

科学はもはや非生産部門の手の届かないところに、生産部門ばかりが進んでしまった。

勿論、非生産部門だけでは食べていけない。

みんなが片付けだけしてたら、全員餓死する。

生産部門と非生産部門のバランスが大切で、

社会は、それが分業化されている。

それぞれ得意な分野があって、それぞれのスペシャリストに任せることが効率的なのだ。

でも、

それは違うように思う。誰もが、生産部門と非生産部門に少しでもかかわった方がいいと思う。

まったく反対のことをすることで、大局を見、気づきがある。

専門を突き詰めるばかりだと、どうしても思考が偏る。

資本主義は効率と頑張りの世界。

でも来年になれば1日が25時間になるわけでも、太陽が2つになるわけでもない。

効率とがんばりの世界は、時代の経過と共に、いつかどこかで行き詰まる。

無理をし、無理をさせる世界なのだから。

資本主義社会を生きる核にすると、生きることがきつくなっていくように思う。


本当は、皆が職をもって、

その中で誰もが仕事を放って、1日2時間ほどは自然と向き合う時間をもつのがいいと思う。

自然と向き合うのは、なんでもいいと思う。

昆虫を追いかけても、花を育てても、魚釣りでも。

自然に直に触れることで得られる発見、喜びを、大人だからってどうして失わなければいけないんだろう。

自然と向き合う厳しさ、そこから得る楽しさを感じるから大切に出来るのに。


うちの敷地をちょっと出て、お隣の敷地も少し掃きながら、

人と人とが、こうして少しの譲り合いで折り合いをつけていくことは知っている。

でも人と人との折り合いばかりに気を回して、

自然との折り合いを忘れる。

自然は、やすやすと折り合ってくれない。

お茶を入れながら、ボっーと、待つ。

とっとと入れてしまいたいけど、待たなければお茶は美味しくなってくれない。

急いでやることばかりがいいんじゃない。

早いことが良いことだなんて、待てない人間の寛容の無さでもあるのに。

「だって納期に間に合わないじゃない」

そうね。正論は正しいだけに反論の余地がないから困る。

仏様にお茶をあげて、

今日のお線香は『清流』にした。

季節として清流には心持ち早い気もするけど、今日の私の気持ちは桜より清流。

春の雨が何もかもを流してくれたのかな。なんだかとっても気持ちがよくて、

春の嵐が、色んなもの吹き飛ばしてくれたのかな。

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公園の池の亀がシンクロしてた(笑)

そばで裸足の子供たちが鴨にエサをあげていて、

「何をあげているの?」と尋ねると、

チョコボールのチョコを私が食べて、中のピーナッツをあげるの」

へぇー

「鴨はチョコは食べないの?」

「うん、食べなかった」

鴨はチョコより、ピーナッツが好きと憶えておこう(笑)