悠久の片隅

日々の記録

阿Q正伝

雨・・・・・

そういえば、昨日つくし出てた。

つくし採りは雨の次の日の夕方が良いから明日行けるかな。

下ごしらえがかなりな手間だけど、春のほろ苦さを味わいたい。


阿Q正伝 (角川文庫)

阿Q正伝 (角川文庫)

数年前、中国の教科書から魯迅が大幅に削除されるようなニュースがあったことを思い出した。

その時はあらあらと思った。

あらあらと思ったのは、

あらあらしか思わなかったからだ。

国語の教科書で知ってる程度にしか知らない人なのであらあら以外感じない。

どういう意味があるかわからないまま流していた。

わからない時、何も考えずそのまま流したら・・・阿Qだ。

無関心と無知。

私も阿Qと変わらない。今初めてそのことを思う。


『阿Q正伝』

彼は二度目の柵の中へ入ったが、しかし大した苦悩もしなかった。

彼は人生天地の間、多分、時にはひっぱり出されたり、ぶち込まれたりもせねばならず、

時には紙の上に丸い輪もかかねばならぬこともあるだろうと思った。

だが輪をかいて丸くできなかったのは、どうしても彼の「行状」の上での一つの汚点であった。

しかし間もなく釈然とした、彼は思ったのだ、孫の代になったら真ん丸い輪がかけるだろうと。

それで彼は眠ってしまった。

無実の罪で捕らえられて、死刑になろうとしているのに、

そのことさえ「そんなこともあるだろう」程度にしか思わず、輪を上手く描けなかったことしか考えない。

阿Qは無知なのだ。

自分が無知とわかってるなら、それは無知ではないのかもしれない。

阿Qの場合、自分が無知であることをわかっていない。

井の中の蛙だ。

井戸の暮らしに(でも俺は良い方なんじゃないかな)と自己解決することで自分を保っている。

無知ゆえの悲劇。

その無知は、中国が全国民に教育を与えていないからで、

国家が国民を育てないのは、罪に思う。

そして

周囲が見えずプライドだけが高いのは、阿Qになぞらえているが、

負け惜しみの強い中国そのものの姿にも思う。

中国の下々の人々を嘲笑うかのような物語の中に魯迅の啓蒙の熱い思いがこめられている。

無知であるために、無実の罪で捕らえられ、名前を書く欄に自分の名前も書けない。

「じゃー輪を書いとけ」と言われたが、初めて持った筆に緊張して丸の最後に瓜のタネみたいなものが

くっついていしまった。

それが多分『Q』で、(『阿』は名前でなく名前に付随するもので)

『Q』という名前は、死ぬ時に彼が初めて書いた自分の名前ということかなと想像するけど。

聖書も最初はラテン語のまま翻訳されず、その為に一部のキリスト者が牛耳ることによって、内部が腐敗していったように

魯迅も文語体では一般市民には届かないことを思い、中国で初めての口語体での小説を書いた。

文語体は特権的知識人のための言葉で、儒教の教えからくる封建制度を変えない限り、

中国の一般市民の解放、中国近代化ははかれない。

魯迅の口語体での小説は啓蒙運動の形であり、それを思うと『狂人日記』の意味合いもわかってくる。

人を食ったことのない子供は、あるいはいるだろう?

子供を救え・・・・・

狂人日記インパクトはかなり強い。

長い社会通念の中で、誰が狂人かをおぞましく感じさせてくれる作品です。

中国の中枢には儒教がある。その儒教に中国は苦心しているなー。

でも今更だけど、

『阿Q正伝』は削除してはいけないんじゃないかな。

自国民への批判、戒めは、中国じゃなくどの国でも必要だと思う。

人間は誰もが井戸の中なのだから。

ひとごとながら『阿Q正伝』『狂人日記』はすごいと思う。

いや、それ以外の作品も全部良かった。


儒教の意味合いも、封建制度の意味合いも、日本と中国では違う。

言葉が同じでも中身は同じではない。

海外から日本に入った文化や思想は、日本のそれまでの文化や風土と馴染ませながらアレンジさせているものが多い。

生国インドの仏教と日本の仏教が違うように

中国の儒教と日本の儒教も違う。

隠れキリシタンキリスト教も違う。

私自身もあれこれ読んでもやはり日本から心は離れることはないし、

海外の小説より、司馬遼太郎あたりの時代小説がやっぱり心に一番馴染む。

キリスト教イスラム教も好きだけど、それらはやっぱり貸衣装であって、

日本の仏様や禅の心の方が身に即した感じがする。

生まれた姿ですでに背負うものの影響は大きい。

自分の意思とは別に一生ついてまわるものに思う。