悠久の片隅

日々の記録

パセリの気持ち

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parsley(パセリ)

可愛いなー。きれいだなー。

ちゃんと三脚立てて撮ってみた。

ちゃんと撮ってあげれば、本当はこんなにも可愛い姿なんだよね。

『好き』は、気持ちだけではなく、

手をかけて向き合うことでもあるんだなぁ。

その為には、ちょっと時間がかかったり、ちょっとお金がかかったり、

そんなふうに自分の中の他の大切なものを捨てることでもある。

得ることは、

他の何かを失くすことでもあって『選択(せんちゃく)』に思う。

物事に一方方向はない。

必ず表裏一体あって、それプラスもうひとつ、自分だけの視点が見つけられたらいいなって思う。


以前、ジムのトレーナーさんとストレッチしながら

トレーナーさん「毎朝起きるでしょう。そのまま布団の上でストレッチすると徐々に目が覚めて気持ちいいんですよ。」という。

私「朝は眠いし、身体硬いし、冬は寒いし、ヤダよ。その分私は寝たい!」

トレーナーさんは、他の大切なものを失くすことを『苦』と感じないほどの『心地よさ』を感じている。だから続く。

何かを始める時も同じ。

始めることは、同時に他の大切なことを失すこと。表裏一体。

自分のゴロゴロする時間は快感で、

それ以上の『快感』を感じなければ、結局は続かない。

意識だけで人は行動をしない。

何か得ることは大切な何か失すこと。

大切といっても損得の大切じゃなくて、今まで身に付いてる習慣は自分の身体の一部になっていて

失くすことを『苦』と思わないほど自分にとって本気で好きかどうか。

身体の一部にもなっているものを永久に捨てることを身体がうんと言ってくれるかどうか、

頭の中だけのことではないから、とっても単純なようでとっても難しいことに思う。

大切だからとか、好きだからだけでは、物事は通じない。


自然も『大切だから』だけでは、守れない。

人が『庭』として、手をかけてあげること。

それは、まず『心がけてあげること』なんだと思う。

自分の子供のように、

日々、風邪はひいてないかな?顔色は悪くないかな?

手当て(手を当てること)が大切。

好きだから大切で、好きだから顔色の悪さにもすぐ気がついて、好きだから心がけてあげられる。

なんにでも、

『本気の好き』しか通じない。

そういう『心』は、合理化をとても嫌がる。

生きることを合理的になんて出来ない。

お皿の中のたかが飾りのパセリだってこんなにも愛おしく、色んなこと教えてくれる。


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この花びら、手触りが紙のようにカサカサ、クラフトみたいで不思議!

スズメが鳴いてる!雨がやんだみたい。

走ってこよっと♪