悠久の片隅

日々の記録

過剰包装

朝からバタバタと。

ようやく座れたのが17時。お昼ご飯。

1度座ってしまうとエネルギー切れ。こたつで居眠り・・・


言葉の虫めがね (角川文庫)

言葉の虫めがね (角川文庫)

一晩で読めそうな薄い本なのに何日もかかってしまった。

読むというより、鑑賞していたかなと思う。

『言葉の虫めがね』と言うように、

日本語を虫めがねで、じっくり観察し、紐解く本。

今の風潮をただ嘆いているのでなく、その奥にあるものをそのまま取り出し、

虫めがねで眺めると、新たな面が滲み出てくる。

たとえば誰かに対して「むかつく」と思った場合、なぜ、どんなふうに、むかつくのかを、

ほんとうは掘り下げ考えるべきなのではないだろうか。

が、「むかつく」の内容よりも「超むかつく」というように、刺激を強くするほうへと表現が傾く。

表現が傾くということは、気持ちもそうだということだ。

のんびり「安いですよ」というより「激安!」と刺激的な言葉で人を惹きつける。

激安が飽きれば爆安。

あるのは「超」や「爆」といった刺激の強さで、その安さがいかほどなのかは何も無いから、中身空っぽに近く、

あとには何も残らない。

中身より『どんだけ~』なのだと思う。

以前、アメリカ人に日本語は「これヤバイ」で、美味しいもまずいも通用するよ。

と、半分ジョーク、半分合法的処置(笑)として教えたことがあるのだけど、

日本語が単純化されているなーと思う。

「超ヤバイ」になると、対象を選ばずオールマイティー

合理化、効率化、能率化は、知らない間に言葉の上でも進んでいる。

言葉を発するのに『手間を省く』傾向にあるのだと思う。

尊敬、謙譲語なんて、不合理の最たるものなのでしょうね。

自分の言いたいことが伝わればいい。

自分の都合が一番。

嫌なものは避ければいい。

そんな観念が言葉の上でも現れる。

味気ない・・・

そこから何が生まれるんだろう。

世の中は移りゆくもので、これも時代の流れとはわかるのだけど。

古典を読もうとしても、英語以上にわけがわからない。

言葉も時代と共に変わっていくのが普遍なのかもしれない。

言葉が変わるということは、人の行動が変わっていくことでもあって、

変わることが普遍ということなのかな。

当の私にしても、「どんだけ~」になっている。すごく。。。本当に。。。もっと。。。

そんな表現しか使えない。

さすがに「超」は使わないけど←無理して似合わないことはしない。

美しさを

「すごく美しいの!!!」としか言えない語彙の足りなさにいつも身悶えする。

美しさを顕す言葉がすぐに浮かんでこないから副詞強調、副詞頼りになってしまう。

美しさにだって

見た目、精神的なもの、行いなど道徳的なもの、情、など様々あるのだから、

言葉にも

豪華、華奢、小綺麗、善美、清楚、粋、妖艶、

表現方法は色々ある。

それらを使うのは言葉遊びであって、

いちいち使い分けるのは無駄な時間と無駄な労力ということになって、

結局「なんだか、とっても美しいね」で済ませてしまう・・・・・

言葉を掘り下げることをしないのは、自分の内面を掘り下げることもしていないのだと思う。

「むかつく」も相手の粗は掘り下げても、むかつく自分の深層がどんなことになっちゃっているのかは

スルー。

言葉をきちんと使うと言っても

その『きちんと』は、自分やその年代での定義でしかないから世代間では共通しないのも致し方ない。

万葉の時代の人が今いたら、会話にならない。

それでも、社会の中では敬語を使わなければいけない。

でも使い方がわからないから過剰包装のようになっている。

「拝見させていただきます」は、「拝見します」「見せていただきます」で充分。

二重敬語がやたらと多いという。

年賀状で「新年明けましておめでとうございます」と書いたら

「新年」と「明けまして」は重複なのでおかしいと父から教えられた。

年が明けたのであって、

新年が明けただと、『頭痛が痛い』と言ってるようなものだと。

新年おめでとうございます。か、

明けましておめでとうございます。で、

『新年明けましておめでとうございます』のようになんでもかんでも言えば目出度いってもんじゃないと。

自分の中で敬語に不安があるから、変なところで過剰に丁寧にしてしまう。

人には慣れというものがある。丁寧語にしても使い続けていると、それが当たり前で丁寧な感覚が薄れていく。

なので、過剰に丁寧にしていってしまうという傾向。

俵万智の鋭いところは、

どんな決まりごとや道理があろうと、

世の中は流れてゆく方に流れてゆくものとみている。

「○○させていただきます」は、おかしかろうとなんだろうと、すでに定着している。

時速50キロ制限の道路であっても、

先頭車が60キロで走れば、流れに乗って皆が60キロで走ってしまうようなものかな。

いくら過剰包装であろうと、

「新年明けましておめでとうございます」が違和感なく使われるのは理屈ではない。

この本の後半は、古典から現代まで俵万智が選んだ句を1つ1つ鑑賞する。

風景が浮かんだり、心情が堪えたり、自分と照らし合わせて考えたり、

前半と違って読むスピードがグーンと落ちた。

読む・・・とは違いますね。

俳句、短歌、短い文字数に込められた思い。

短いから、あとは想像しかない。想像だからどこまでも広がってしまう。

私には、なかなか鑑賞の域までは達しないものも多く残念だけど、

マイペースで楽しんでいます。