悠久の片隅

日々の記録

アート祭り

食欲がない。

ということは、

食べるということは、脳がかなりの部分を支配をしているってことなのだと思う。

今私の脳みそは『犬、犬、犬』で95%くらい占められていて、『ご飯』の余地がない。

気力というのは、そういうことか。

恋をして胸がいっぱいもそうだけど、

脳の中に、他にことを考える余地がなくなってしまう。

恋して痩せるのと、不安で痩せるのと、多分原理は一緒。

恋心を抑えられないのと、不安を抑えられないのも、同じなのだと思う。

なにもそんなに不安がらなくても・・・といっても、

恋のドキドキを止められないのと一緒で、どうにもならないこと。


昨日、日曜日の18時半からのテレビ東京『137億年の物語』

(文系・理系の枠を超える話題のベストセラー本「137億年の物語」を映像化。

「137億年前に宇宙が始まってから今日までの全歴史」という壮大なテーマを紐解く・・・という内容)

これで、ネアンデルタール人の話をしていて。

ネアンデルタール人は、埋葬をしていたのではないかと。

埋葬をしていたということは、過去と未来という観念があり、過去と未来を考えられるのは高度な知脳なのだと。

なるほど。

人間以外は埋葬という考えは無い。

親犬が死んだからお墓を作ろうなどと考える犬はいない。

『今』しか考えられない。

うちの犬も(帰りたい)とは考えても(いつ帰れるんだろう)という未来への考えはないってことか。

犬が粗相をした時には現行犯で叱らなければ犬は理解出来ない。

「こんな所におしっこをして!」と、飼い主が帰ってから叱ったのでは、犬はなんのことで叱られているのかがわからない。

過去にしたことへの罪悪感をもてないのだ。

(今)いい子にしているのに、なんで怒られているんだろう?と、かえって混乱してしまう。

人間と犬は違う。

私は、

犬に自分の脳みそくっつけて考えているのか・・・・・

自己中な人間は、ついそうしてしまう。

他人に自分の脳みそをくっつける。いや、そうしちゃうところが自己中。

多分犬は(もう迎えに来てくれないんじゃないか)とかまでは考えていない。

(おうちに帰りたい・・・)それだけじゃないかな。それ以上余計な不安はないのかも。

その方がいい。

過去と未来があるというのは、不安と怖れが倍増するような気がする。

まぁそんな風に考えたとして、今の犬の現実が変わるわけではない。

現実が変わらない限り、何もかも気休めな気がする。

病気から10日・・・

よくなってない。

例えばすい臓に効く薬が開発されました!というなら救いになるけど、

そういう確かなもの以外、何も救いにはならない。

現実は変わらない。


アートの祭り

アートの祭り

古い本だけど、この人の感性、好き。

10億の借金をしたり、自殺未遂もあったらしいけど。

本気で良い仕事をしようとしたら、採算など合うものでない。

採算を度外視したところに、突き詰めたもの、本当のモノはあるのだと思う。

でもお金が無ければ突き詰めることも出来ない。

アートとはそのジレンマの中での闘いなんじゃないかな。

繊細なこの人の感受性は、そのジレンマに耐えるには弱すぎる。

でもその弱さ、自信の無さ、がモノづくりへの必死さになっている。

日本の国土の形状が美しいという。

日の丸の形状が美しいという。

意味より形にこだわりを感じていて、

でもそこに意味付をすると、ちゃんと哲学がある。

日本と日本の文化をピュアに愛し、生まれながらのアーティストなんだろうなって思う。

この本を読んでこの人の弱さを知ってしまうと、歌を聴いていてもこみ上げてくるものがある。

私は壊れそうに繊細な人が好きなのかもしれない。