悠久の片隅

日々の記録

自分の頭と身体で考える

『自分の頭と身体で考える 養老孟司甲野善紀

読了。

ふぅむ・・・

甲野善紀は、古武術での創作身体技法というのかな。

文字だけでは掴みづらいのでYouTubeで検索。

D

うぉ~~~!論より証拠!すごい!すごい!(;゚Д゚)!

柔道の吉田秀彦のガードを簡単に返してる。

習うものでなく、自ら編み出した技であるところがすごい。

養老先生も虫と解剖の人だから、論より証拠。

この2人気が合うわけだ!

論は1つの証拠の前では、簡単に覆ってしまう。

証拠に勝るものなし。


江戸時代、庶民は『走る』ことがなかった。

だから走れなかった。

走るなんてこと誰でも最初から出来るように思うけど、そうじゃないらしい。

私もジムで、そういうことは、幾らでもあった。

トレーナーさんいわく

「使っていない筋肉や関節の動きは、動かし方がわからない。だから教えてあげなくちゃ出来ない。」と。

元々能力は備わっているのに、現代の人間が出来ない動きはいっぱいある。

でも、コツさえ掴めば難しくないこともいっぱいある。

日常必要でやらない(意味が無い)ことは、身体の使い方がわからないのだ。

意味が無いことに、たくさんの意味があるのにね。

とにかくまず、固定観念からの脱却をしないと、

常に『論』が先に立つ現代社会では頭ばかりでなく身体も凝り固まっている。

この人の道場では、役職や段位がない。演武会等のイベントもない。ただ稽古の研究だけ。

これって、日本の社会ではまず無いと思う。

主人に

「ねぇ・・・もしヤクザの世界に組長とか若頭とか階級が無く、フランクだったらどうなると思う?」

と、尋ねてみた。

主人「それだと、統制がとれないでしょう。成り立たないんじゃない?」

うん、そうかも。

今、スポーツ界でみられるような集団の中での陰湿な体質は、欲の権威から生まれてくるんじゃないかな。

権威付けと因習で縛るのは、

自分たち以外の『他』と凌ぎあう為に必要な身内の統制なのかもしれない。

統制は社会という集団では必要であるけれども、本来、人間は皆自由な方がいい。

ただ、個々が自由だとグチャグチャになっちゃうから、縛りを作っている。

縛りが無いとこでグチャグチャにならないなら、その方が良い。

日本は、上司の意見が絶対視されるけど、

北欧などは、若い人の意見の方が尊重されると、何かで読んだ。

なぜなら、これからの時代を作っていく担い手が若い人たちだからだ。

今は、世の中がんじがらめ。

養老先生いわく、

頭が固い方が生きやすい世の中なんです。

だから、どんどん規制を作るわけでしょう。無限に規則が増殖しているんです。

人間というのは、ブレる生き物だと思う。

私は今、犬さえ元気になってくれれば、他に何もいらない。

と、思っている。

本当にそう思っている。

でもこれがもし犬が元気になったらなったで、私は次また何かに執着するのは間違いない。

「犬が元気になってくれさえしたら・・・」

多分、命への執着が欲の一番手だと思う。

それが手に入れば、今度は物欲、あるいは(犬がいい子になって欲しい)という支配欲などが

自動的に一番手に繰り上がってくる。

欲の『座』が空席ってことは無いと思う。

一見無気力の死にみえても『死にたい』という死に対する欲だってあるように思う。

死に執着してしまえば、死を選ぶこともあるのだと思う。

話はブレブレだけど、

人は環境、状況によりブレる。

ブレなければ、初恋の人以外愛せないはずだ。

浮気するにも、旦那さんや奥さんと似たタイプの人を選ぶハズだ。

でも、そんな人はまずいない。

元々人間に一貫性はない。

でも、昨日と今日で、言うこと、やることが違ってたら困るわけだ。

だから規則や縛りが必要で。

必要というのは、縛りが無いと難しいということ。

規則で縛っちゃった方が楽だからそうしちゃってる。

本来、困りながら、その中で自分で考え、生きて行けたらよいことを

首根っこおさえて、

『チョークを投げたら体罰です。』ということになっているのだと思う。

それの方がわかりやすいという理由で。

自ら考えて判断する。

合ってても間違ってても、その結果から大切なことが生まれてくるんだと思うけど。

今は100%間違いは許されない。

人間にそんなことあるわけないのに。

でも、このような傾向は益々強くなっていき、

どこかおかしいということに気づかなくなっていくのが歴史の流れなのかもしれない。

人間に一貫性がある・・・などと思って生きているなら、

それは自分だけのことで、周囲の者は違うと考えないとややこしいように思う。