悠久の片隅

日々の記録

めぐりあいし人びと

昨日は芝生のエッジ処理をして、手のマメつぶれた。

今日は苗の移植(←なんの種まいたか忘れた)と草木の消毒。

これにて春の庭の作業もひと段落。梅雨前に終わった~♪

来年は芝生の貼替えと鉢置き場を作れたらいいな。

DIY好きの旦那さんに憧れる~~~

そういうことを億劫でなく楽しんでやっちゃう人っていい。

この前も友達とホームセンター2軒はしごして。

何も買わなかったけど(笑)2人ともホームセンター大好きだから、工具とか見ているだけでも楽しい。

生きることの基本でしょDo it yourselfって。

Do it yourselfで疲れるんじゃなく、楽しめるってことが生活の中で重要なんじゃないかな。


男と女の区別が、はっきりくっきり別物ではないとわかって。

実は動物と植物も、はっきりくっきりとは分かれていない。

動物と植物の違いは、だいたい見ればわかる(笑)

植物は動かずに自給自足(光合成)で生きている。

動物は自給自足(光合成)が出来ないので、他の動植物を食べなければ生きていかれない。

でもミドリムシのように、光合成をしながら、動いて捕食をする、植物とも動物の合わせ技をもった生き物もいる。


人と人がコミュニケーションをとるのに、言葉は必要で、

言葉とは、決め付けるもので、そうしなければ話にならない。

「このキャベツ美味しいね♪」と言われて

これは本当にキャベツなのだろうか。

どうしてキャベツと断定出来るのだろうか。

美味しいとはどういうことか。

甘い、辛い、酸っぱい、苦い、がどう組み合わさると美味しいのかなど、

哲学者みたいなこと言い出したら、社会のルールは作れない。

厳密にいえば、社会に出てしまえば、もう正解などないといえる。

『朝』『昼』『晩』とあっても

何時から何時が朝で、何時から何時が昼かは、誰も答えられない。

定義はあっても、

生まれや環境や時代、その時その時で違う。

元々が曖昧ないのに、枠を作って定義しなければ、ルールもコミュニケーションも成り立たない。

言葉は便宜上のものであって、一番底の部分ではどこか曖昧なものなのだと思う。

言葉で言い表せれば、こんなに楽なことはない。

本来は言い表せないことをいい表している。

だから、言葉という枠の縛りにとらわれすぎると、やはり見えなくなってしまうものがある。

今日うちのヒマワリを見たら、葉っぱが黄色く退色していた。

水が足りないのかな?逆に多いのかな?

肥料が足りないのかな?多いのかな?肥料といっても、窒素、リン酸、カリウムのどれかな?

それとも、菌かな。病気かな、害虫かな。

植物とコミュニケーションをとるのは難しい。

本来植物はもっと自然なもので、

人間の手が加わることで、自然でなくしているから難しい。

葉っぱの裏に虫はいないか、カビは生えてないか、丹念にみて、

1本掘り起こしてみて根っこの状態みたり、それでもよくわからない。

でも葉っぱが黄色かったら光合成が減って、枯れてしまうってことだけはわかる(涙)

相手を知るということは、本当に難しい。一朝一夕でいかない。

人間同士でも意思の疎通は元々が難しいものだと思う。

考えるというのは、言葉で考える。

でもまずは見る、知ることが大事に思う。

今はまっさらな目で見る前に、情報という形で得てしまうことが多い。


つまり、歴史を過去と未来や、西と東などに分けるのではなくて、

過去も未来も西も東も仏教の曼荼羅(まんだら)のように、人間の存在を取り巻いているものだと考えたほうが、

より豊かに、かつおもしろくなるし、それこそがわれわれにとっての「歴史」であると思っています。

めぐりあいし人びと (集英社文庫)

めぐりあいし人びと (集英社文庫)

今は、教育が熱心なあまり情報が先に立つ。

情報が先に立って、モノが見えづらいという面が多々あるように思う。

敗戦後、教科書さえ黒く塗りつぶされ、

当時の人たちは戦後、0からのスタート、或いはマイナスからのスタートとなった。

だから、まっさらな目で捉えることが出来たんじゃないかな。

国家なんてものは嘘をつく。

そこからのスタートとなった人たちは、本当によく見ているなーと思う。

この本は堀田善衛のエッセー。

アジア、ロシア、アフリカ、ヨーロッパで出会った人たち、出会ったことを、

まっさらな目で見て、まっさらに付き合っている。

かっこいいなー。

ヨーロッパで生活した時の印象をこう語っている。

バカンスなどで高速道路が混んだりすると、パトロールがやって来て、

トラックをすべてインターチェンジのパーキングへ入れて止めてしまう。

物的流通を犠牲にしても、人間を優先する。

この辺に、日本との車文化のあり方の違いを感じます。

人間優先という考え方は、デモクラシーのあり方にも関係してくるでしょう。

ひと口にデモクラシーといっても、アメリカのような一種の平べったいデモクラシーもあれば、

イギリス、フランス、ドイツのような階級を存続したままでのデモクラシーというのもありうるわけです。

なぜそのような多様なかたちがありうるのかというと、

デモクラシーというのは、手段、方法であって、それ自体が自己目的ではないからです。

だから、デモクラシーには、デモクラシーに対する幻滅がはじめからビルトインされているわけです。

一方、社会主義は、社会主義建設が目的であって、目的のためには手段を問わないという部分が必ず出てくる。

つまり、社会主義に対する幻滅感が、あらかじめビルトインされていない。

だからその目的に反するような行為は罰しなくてはならなくなってくる。

そこが、デモクラシーと社会主義との非常に異なる点であると思います。

しかし、政治体制というものは、やはり幻滅が内蔵されていることのほうが安全弁になるだろうし、

健全なシステムだと思います。

三種の神器がなかったためにコンプレックスに苛まれていた後鳥羽院とか、

明治天皇にしても、何人もお局と称するお妾さんがいたとか、

そういうことはまったく教えない。

そうしたことが、わが国の歴史教育の無味乾燥さを招いてしまっているのだと思います。

人間的な部分がないと、歴史は史料から飛び出してこない。

本の中の過去の産物で終わってしまう。

過去は現在でもあるということが日本にいるとわかりずらい。

こうした歴史意識および歴史管理能力の欠如がそのまま日本の政治家の理念の無さに繋がっているという。

古事記ってあまりに人間臭い。

天皇のはじめがこんなでいいの?ってとこで教科書にのせずらいとは思うけど、

古代の日本のおおらかさを知って欲しいな。