悠久の片隅

日々の記録

人生論ノート

今日も涼しくて過ごしやすかった。

今月は、断捨離月間。

サクサク片付けも進むはずなのに全然出来てない。

毎日『明日は出来る』という気にはなるんだけど、おかしいな。

時間があるのに今日出来なかったことは、明日になっても出来ないわけで、

どこかに『気合の元』落ちてないかな。

一旦やり始めてしまえば、気も乗ってくると思うのだけど、なかなか身体がいうこときかない。

来月になれば暑くて、片付けどころではなくなるから今のうちなんだけどなー。

もう、家の中のもの全部捨ててしまいたい、家ごと捨ててしまい気分だけど、

気ばかり焦って、何も始めてない。

そして、庭に出ては草むしりしてる(笑)


人生論ノート (新潮文庫)

人生論ノート (新潮文庫)

孤独は山になく、街にある。

一人の人間にあるのでなく、大勢の人間の「間」にあるのである。

孤独は「間」にあるものとして空間の如きものである。

「真空の恐怖」-それは物質のものでなくて人間のものである。

草むしりは、孤独な作業なはずだけど、

無心になっているので孤独を感じない。

腰もアキレス腱も痛くなって大大大嫌いだけど、抜けば抜いただけ景観が良くなる。

努力に即、等価で応えてくれるところが好きだ。

他人の評価のまったく関係ない自己満足だけの世界だけど、一切の孤独はない。

私の中で一番無心になっている満足できる時間かもしれない。

孤独は、

他人に何かを期待した時感じるもので、

自己に満足している時は孤独な時間であっても孤独を忘れている。

ひとりでいるから孤独なのではない。

そして、ひとりで過ごす時間はそう悪いものではない。

何と向き合ってるのかよくはわからないけど、

お散歩したり、走ったり、草むしりしたり、我を忘れている時間が私は好きだ。

ひとり部屋、ひとり暮らし、ひとり旅・・・・・

究極の孤独は、死かもしれない。

孤独は、寂しさの果てでもあり、究極の贅沢でもある。


三木清は、政治犯をかくまったとされる罪で拘留、終戦から一ヶ月後刑務所で孤独死した。

劣悪な環境からの死、思想の弾圧である。

戦争が終わっても尚、国はそんなことをしていたのかと、

若くして亡くなったこの命に国家という形無いものが、どう責任とれるというのか。

あまりにも気の毒です。


『9月26日の朝、看守が三木の独房の扉をひらいたとき、三木は木のかたい寝台から下に落ちて、

床の上で死んでいた。干物のように。』

日本の内閣は終戦後も治安維持法撤廃する意志はなかった。

それを知ったマッカーサー元帥は、

10月4日夕刻「政治、信教ならびに民権の自由に対する制限の撤廃、政治犯の釈放」を指令。

内閣は辞職、10月10日、政治犯が釈放された。