人生論ノート
今日も涼しくて過ごしやすかった。
今月は、断捨離月間。
サクサク片付けも進むはずなのに全然出来てない。
毎日『明日は出来る』という気にはなるんだけど、おかしいな。
時間があるのに今日出来なかったことは、明日になっても出来ないわけで、
どこかに『気合の元』落ちてないかな。
一旦やり始めてしまえば、気も乗ってくると思うのだけど、なかなか身体がいうこときかない。
来月になれば暑くて、片付けどころではなくなるから今のうちなんだけどなー。
もう、家の中のもの全部捨ててしまいたい、家ごと捨ててしまい気分だけど、
気ばかり焦って、何も始めてない。
そして、庭に出ては草むしりしてる(笑)
- 作者: 三木清
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 1978/09
- メディア: 文庫
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孤独は山になく、街にある。
一人の人間にあるのでなく、大勢の人間の「間」にあるのである。
孤独は「間」にあるものとして空間の如きものである。
「真空の恐怖」-それは物質のものでなくて人間のものである。
草むしりは、孤独な作業なはずだけど、
無心になっているので孤独を感じない。
腰もアキレス腱も痛くなって大大大嫌いだけど、抜けば抜いただけ景観が良くなる。
努力に即、等価で応えてくれるところが好きだ。
他人の評価のまったく関係ない自己満足だけの世界だけど、一切の孤独はない。
私の中で一番無心になっている満足できる時間かもしれない。
孤独は、
他人に何かを期待した時感じるもので、
自己に満足している時は孤独な時間であっても孤独を忘れている。
ひとりでいるから孤独なのではない。
そして、ひとりで過ごす時間はそう悪いものではない。
何と向き合ってるのかよくはわからないけど、
お散歩したり、走ったり、草むしりしたり、我を忘れている時間が私は好きだ。
ひとり部屋、ひとり暮らし、ひとり旅・・・・・
究極の孤独は、死かもしれない。
孤独は、寂しさの果てでもあり、究極の贅沢でもある。
三木清は、政治犯をかくまったとされる罪で拘留、終戦から一ヶ月後刑務所で孤独死した。
劣悪な環境からの死、思想の弾圧である。
戦争が終わっても尚、国はそんなことをしていたのかと、
若くして亡くなったこの命に国家という形無いものが、どう責任とれるというのか。
あまりにも気の毒です。
『9月26日の朝、看守が三木の独房の扉をひらいたとき、三木は木のかたい寝台から下に落ちて、
床の上で死んでいた。干物のように。』
日本の内閣は終戦後も治安維持法撤廃する意志はなかった。
それを知ったマッカーサー元帥は、
10月4日夕刻「政治、信教ならびに民権の自由に対する制限の撤廃、政治犯の釈放」を指令。
内閣は辞職、10月10日、政治犯が釈放された。