悠久の片隅

日々の記録

ミミズが土の上に出てのたうち回っていたので、

急いで土に埋めて水をかけてあげた。

ん~これで救済になったのかな?

雨が降らないから出てきちゃったんだね。

ミミズは、うちの庭の立派な働き手。大事にしないとです。

ゴーヤのネットには、蜘蛛の巣がかかっていた。

蜘蛛は虫を捕まえてくれるので、こちらも立派な担い手。

でもハモグリバエの10分の1にも満たないちっちゃな蜘蛛。

戦力にはなりそうもないけど、ちっちゃな体におっきな巣でがんばっている努力に期待です。

そのうちゴーヤのツルが蜘蛛の巣を破壊するかもだけど・・・


バジルが1株しか育っていない。

芽は出たけど、

尺とり虫みたいなのに食べられてしまった。

蛾や蝶が嬉しそうに飛んでいれば、そうなるわけで(涙)

なので、今日新たにプランター2鉢分追加で種をまいてみた。

去年はバッタを餌付けしている状態になったので、今年も危なっかしいな。


寄せ植えの中のリビングストンデージーが枯れた・・・

掘り起こしてみたら、根っこも枯れてきている。

どした?!

根切り(コガネムシの幼虫)か?

他の花たちも全部出して、プランターをほじくってみても根切りは発見できず。

原因がわからないので、土の上から熱湯かけて煮沸消毒。

でも、

土の表面だけですね。熱湯がかかるのは。

まぁ一応蒸されたかな・・・程度で。

他の花たちも根っこをバケツの中でジャブジャブ洗って、水風呂ドボーン。

で、

リビングストンデージー調べてみたら、1年草で寿命だったみたい。

なんだぁ。。。。。

もしかしたら、水が多くて枯れたのかもしれないけど、

1年草なら、種をとってみれば良かった。

花柄は、どんどん切ってしまったので、種とってない・・・

今、一応救済棚に置いて様子みてるけど、終わったっぽいなー。

ってことで、

他の花たちは元気に咲いているのに、掘り起こされて、風呂入れさせられて大迷惑。

余計なことをしてしまいました(汗)

元気な頃のリビングストンデージー。

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アイスプラントと同じ仲間かな。


うちは紫陽花が無いので、この時期は紫陽花見にいきたいな。

紫陽花というと、

子供の頃、学校から帰ると母が「今から鎌倉に紫陽花を見にいこう!」と、

あじさい寺に行った記憶が鮮明に蘇ってくる。

そうやって予定してなくどこかへ連れて行かれたことがよくあった。

旅行はよく行った。あっちこっち連れて行ってもらった。

父と2人になっても、

ある朝、「お天気いいからどっか行きたいね・・・」という話をして「とりあえず新幹線に乗ろう」と、

普段着のままプラっと出かけることも時々あった。

今思えば、それってとても贅沢なことだったと思うし、親に感謝です。

子供が楽しんでいれば親は嬉しいし、親が楽しんでいれば子供も嬉しい。

突然ぷらっと出かけるのは、

オーストラリアでも、よくした。

炊飯器とお米と海苔と梅干とりんごとオレンジを車に積んで車でプラっと、遠出。

泊まるのは、モーテルで、

シャワーのお湯が出なかったり、電気がつかなかったり、

まぁオーストラリアだからしょうがないか・・・

寝れればいいか。くらいのもの。

『オーストラリアだからしょうがないか』と納得出来ちゃうとこが慣れなのでしょうか。

日本でもそれくらい寛容になれればよいのですけど、

不便はありえない・・・と、思考回路がなってしまっています。

食べる所も田舎は早く閉まってしまうので、

夕飯を食べ損なうこともあったので、炊飯器は必需品。

旅に出て、夕飯無し・・・も、何回か経験したので。

知らない街に遅くに着いて、モーテルをやっと探して、

疲れ果てて夕飯無しは、これほど侘しいことはありません・・・

日本のように、何時でもどこかしらビジネスホテルや食べる所が空いているだろう感覚はダメですね。


三木清が旅についてこんな風に書いています。

旅は未知のものに引かれてゆくことである。

それだから旅には漂泊の感情が伴ってくる。

旅においてはあらゆるものが既知であるということはあり得ないであろう。

なぜなら、そこでは単に到着点或いは結果が問題であるのでなく、むしろ過程が主要なのであるから。

ひとはしばしば解放されることを求めて旅に出る。

旅は確かに彼を解放してくれるであろう。

けれどもそれによって彼が真に自由になることができると考えるなら、間違いである。

解放というのは或る物からの自由であり、このような自由は消極的な自由に過ぎない。

(中略)

旅において真に自由な人は人生において真に自由な人である。

人生そのものが実に旅なのである。