悠久の片隅

日々の記録

攻撃的守備

雨で、数日草むしりをしなかったので、かかとの腫れも赤みも無くなった。

でも、反比例するように雑草が出ていた。

屈むとかかとが痛いので、時々伸ばしながら、午前中1時間、午後に1時間、草むしり。

植物と向かい合っていると、植物も人間も変わらないなーと思う。

皆、自分を守りたくて、

それが他には攻撃的と映る。

植物も、毒を持っていたり、悪臭を放ったり、他を駆逐するほどの勢いをもっていたり。

必死で生き延びようとしてる。それが本能で、それがすべてなのだ。

ドクダミが臭いのも、他を駆逐するほどの生命力も、悪気があるわけじゃない。

ごく単純に、自分の身を守ろうとしているだけ。

ドクダミの白い花は可愛い。お茶にしても美味しいらしい。

でも可憐さにすべてを許していたら、うちの庭がすべてドクダミで覆いつくされてしまう。

それは共存とはいえない。

私だって、自分の庭を守りたい。

守りたいがために、私も攻撃的になる。

ドクダミタンポポは可愛いけど、

ドクダミタンポポも茎の一部が残っていたら、そこからまた再生することが出来る。

とても私の手に負える相手ではない。

だから除草剤も使う。

その代わり、葉っぱに筆で薬を塗るだけで、薬剤を一面に撒くような破壊的なことはしない。

土壌には影響のないといわれる薬剤を葉に塗るだけ。

それでも、化学薬品を使うことは暴力的だと感じる。植物からみたら化学兵器だ。

人間は自分の敵わない相手には暴力的になる。

やはりそれも本能に思う。私は私の領分を守りたい。

ドクダミと話し合いで解決出来るくらになら、とっくにやっている。

手で取れる相手には、手で対応している。

もちろん、薬剤を使うことに罪悪感はもってる。

でも使う、私も暴力的だな。原爆落とした人間と根底では一緒なんだ・・・と、自分を客観的に見つめながら。

生物なんて基本は同じなのだから、

いずれ人間も髪の毛1本から人間そのものが再生出来るようになるんじゃないかな。

人間は高性能だから、その分再生が難しいとは思うけど、出来なくはないんじゃないかな。

タンポポも私も、元のところでは一緒なのだから。

単純なものほど、生命力は強く、

原爆であっても、植物を根絶やしすることは出来なかった。

タンポポの根っこを掘っていったら、

普通にゴボウだった(笑)

20センチほど掘ってもまだ先が続いている。すごいなー。

高性能の人間がいくら化学薬品を生み出しても、ウイルスは、より耐性の強いウイルスとして復活するだけ。

ウイルスも同じ、皆自分を守るための闘いを永遠に繰り広げる。


昨日はようやくの梅雨の晴れ間。

うちの小さな庭にも黄アゲハ、紅シジミ、モンシロチョウの3種の蝶が舞っていた。

雨の間、蝶は絶食していたのかな。

5ミリくらいのバッタ、1センチくらいのカマキリもいた。

バッタは紫蘇を食べに、カマキリはバッタを食べに来ている。

厄介であっても、これが自然の循環で、

有機質、無機質は、生命の有る無しのように思う。

厄介を避けた無機質な暮らしは、手間はかからないけど、大切なことが見えなくなりそう。

植物も虫たちも、現実は残酷だ。

ある本に

『期待とは自分にするもので、他にするものではない。』

と、あった。

そっか。

この残酷な世の中で、他に期待を寄せるのでなく、

自分がその中でどう生きてゆくか。

自分が出来ること、自分しか出来ないこと、そこだけを模索していけばよい。

他の人は他の人自身が考えること。

自然とは残酷だと思う。

でも残酷だから生命の美しさがある。

こうやって日々、植物や虫と闘いながら、戯れながら、尊いことを教えてもらっている。