悠久の片隅

日々の記録

ガラスの地球を救え

一点のくもりもない、目の醒めるようなヒマワリの黄色。自然の色、形はすごいです。

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真ん中の部分、よく見ると水玉いっぱいつけて、汗かいてる。

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朝顔の蕾も芸術的にねじれてる。

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何を見ても健気さが、美しくて見とれてしまいます。

バジルの葉をお酢につけて、1ヶ月ほどたてば、バジルビネガー完成♪

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マリネやドレッシングに、重宝する。

ひとつは、バジルの他に、ニンニク、タカの爪、入れてあります。

今年は、バジルがバッタに食べられることなく育っている。

同じシソ科のサルビア(ネモローサスノーヒル)を植えたら、バッタはそっちを好んで食べている。

最初は捕殺しようとしたけど、サルビアの葉っぱなら多すぎるほどなので食べてもらってます。

葉っぱは穴だらけでも次々お花は咲かせているので、ノープロブレム。

そしてプランターでバジルを育てる以外に、数本バッタ用に地植えもしたので、そっちも食べてる。

意地悪しないで、バッタ用に分けてあげれば大丈夫なんだね。

バッタは身体1cmほどなのに、30cm以上跳ぶ。

150cmの人間で換算すると、50mの跳躍力!

バネも筋肉もついているようには見えないけど、どんな仕掛けがあるんだろう。。。

オリンピック選手をすごいと思ってみているけど、魚も虫もすごい。


ガラスの地球を救え―二十一世紀の君たちへ (知恵の森文庫)

ガラスの地球を救え―二十一世紀の君たちへ (知恵の森文庫)

読んだことあるかと思ったけど無かった。

手塚治虫は一貫して『生命の尊厳』を説き続けている。

つまり『鉄腕アトム』で描きたかったのは、一言で言えば、科学と人間のディスコミュニケーションということです。

アトムは、自分で考えることもでき、感情もあるロボットです。

アトムが人間らしくなりたいと、学校に通うところを描きましたが、計算問題は瞬時にしてできてしまうし、

運動能力では比べようもありません。

そこで、アトムは非常に疎外感を味わうわけです。

そういう疎外感、哀しみといったものをビルの上に腰かけているアトムで表したつもりなんですが、

そういうところは全然注目されず、科学の力という点だけ強調されてしまった。

大変残念でなりません。

ブラック・ジャックはどんな患者でも治してしまいますから、患者はもちろん寿命が延びます。

彼に限らず、先端医療機関はどんどん患者を救って生命を延ばします。

すると、結果的に、世の中は死ぬ人間は少なくなり、高齢者が増え、高齢化社会に傾いていくのではないか?

あるいは、結果的にライフサイクルが狂い、人口過密をきたすのではないか?

ブラック・ジャックは、一人患者を治すごとに、いつもそんな悩みに苦しむのです。

医者は果たして人間に延命策を施すことが使命なのか、老衰した高齢患者の生命を救うことによって、

その患者の余生を果たして幸福にできるだろうか。

ブラック・ジャックは自問自答し、はげしいジレンマに陥ります。

(中略)

ブラック・ジャックは医療とは何か、人間の幸福とは何かという問いを繰り返すのです。

1度作品として世に送り出してしまうと、作者の手を離れていってしまう。

作者が意図しない方へ理解されてしまうこともあるわけで、

アトムやブラックジャックのジレンマは手塚治虫のジレンマでもあるのだと思う。

無駄や遠回り、道草を許さない社会は、どう考えても先に豊かさは見えません。

合理主義や生産至上主義は、結局はその社会を疲弊させてしまうでしょう。

なぜなら、みずみずしい感性や独創性をもった子どもたちが、育っていくはずがないからです。

一見、大人の目から見てダメに見える子どもの中にも、大人に眼力がないために埋もれたままになっている

何かが必ずあるはずです。

ひとりひとりの子供たちの、内部に眠っている宝のような何かに届く大人の眼差しがいま、

求められているのではないでしょうか。

子供たちは他者を傷つけ、自分たちも満身創痍になりながら、救いを求めているのだと思われてなりません。

その叫び声は、何だか地球の悲鳴と重なって聞こえてくるような気さえしています。

子どもたちが、大きな夢を、しっかりと地球の大地を踏みしめて、宇宙へとはばたかせることができるように、

ぼくたち大人は力をふりしぼらなくてはなりません。

私がよくみるブログの中に高校生の男の子のがいて、

テスト期間中に樹液取りに行っていた。

テストで早く帰れるので。というのが理由。

まったくそのとおりだ。

テストは、普通にやっていれば、普通にはとれるからいいらしい。

頼もしいです。

そしてクワガタ捕まえてきていた。

生き物は待った無しだ。

自分のことより優先しなければ、殺してしまうこともある。

テスト期間中でも、子どもでも、テスト以上に大切なものはあるはず。

そのことを親が見失えば、子どもも見えなくなってしまう。

私はカイコのために夏は1日2回桑の葉とりに行ってた。

1回では間に合わない。

そして近くの桑はとりつくして、徐々に遠くまで探しに行くようになる。

でも自分が苦労をして命を守っているから、カイコであっても愛情もわいてくる。

そういえば、

昔は公有林もいっぱいあって、

でも今は公有地がどんどん私有化され、

そういう無駄な場所というか余裕が、消えていってる。

西欧は、逆に国有地を増やし、国民のために使う方向に手を尽くしているという。

きっちり埋められた空間なんて、休符の無い音楽みたいなもの。息継ぎ出来ない。

今は、花も昆虫も餌も買う時代になった。

家庭でさえ、きっちりパターン化されているという。

何でもない空間や時間が、人に安らぎやひらめきを与えると思う。

手塚治虫は、

『人生において、ゆとりということは重要なファクターです』こう述べている。

花や虫や、子どもの頃から接しているうちに命の尊さを学ぶ。

残酷でも、殺してしまって初めて気づくこともある。

トカゲの卵を殺してしまった私はまだショックが尾をひいてます・・・

でもそうやって学んでいくしかないように思う。