イスラエル
- 作者: 栗谷川福子
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 2002/04/16
- メディア: 文庫
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ユダヤには安息日(金曜の日没から土曜の日没まで)というのがあって、
その日は皆お休みしなければならない。
以前に旧約聖書の中で「牛など家畜も休まなければならない」というくだりを読んで、吹き出したけど、
いやいや、それどころの話では無い。
仕事をしてはいけない。
という中に電気のON、OFFもしてはいけないとある。
安息日の間は、部屋の明かりを点けるのも消すのもいけない。
字を書くこともいけない。(←これも仕事)宿題や試験があっても。
公共の交通機関はすべてストップ。
お金のやりとりもいけない。
お料理もいけないから、前の日に作り置きしておく。
正統派ユダヤの人たちは、神様との約束を守っている。
そんなことに意味があるかどうかは、その人自身が決めることで、
お彼岸にお墓参り行くことも、義務ではない。行く人にとっては意味があるから行く。
それと同じなのでしょうね。
シャバット(安息日)には、散り散りになって暮らしていた家族のメンバーがわが家に帰る。
そこで家族団欒したり、友人や親戚を招待し歓談して過ごす。
ユダヤ教徒は仕事が山積していても手を出さない。
これには相当の決断力と、強い意志、克己心が必要だ。
だからシャバットは人格を磨く良い機会となる。
ユダヤ民族は家族をことのほか大切にし、家族を愛することが仕事より優先する。
その深さは日本人の想像を絶している。
己を律する。『克己心』日本人らしい素敵な言葉にキリリとします。
「ユダヤ人は怠け者である。七日に1度休むから」といった大昔のローマ人。
イスラムも何ごとも「アラーの思し召し。」とのんびりしているし、
働き者のクリスチャンは、一緒に仕事していたら周囲のマイペースさにイライラするでしょうね(笑)
そんな多様な人たちが混在するイスラエルの難しさ。
根底に宗教からくる価値観の相違があるとしても、結局は感情の問題になるのだと思う。
どんなことも、そこに意味があるかどうかはその人自身の問題なので、
周囲があれこれ気をやんでも如何ともしがたい。
嫌いな相手は、実は自分の奥底の心を映し出す鏡。
ローマ人も本心では、そんな風に割り切って休みたかったのでしょうね。
たとえば、欧米は西暦があって、
暦にしても1年が365日と決まっているものでもない。
すべては、人間の生み出した解釈で、ひとりひとり解釈が違うのは当然のこと。
日本は農耕民族なので5月には田植えをするなど、暦が季節と一致していることが大事でも、
気候(自然)が人々の生活に大きく影響していて、それにより考え方、生活スタイルが違ってくる。
その上で、共存していかなければいけないというのは、まともに考えると無理に等しい。
でも、地球は1つしかないのだから、無理を承知で一緒にくらしていかざる負えない。
自分が幸せになりたいのと同様、隣人だって幸せになりたい。
自分が生きたいのと同様、隣人だって生きたい。
それを妨げる権利はない。
十人いれば十通りの考え方があって、日常的に不愉快なことなど無くなりはしない。
怒りも悲しみもあるけど、それは隣人もまた同じこと。
損することもあれば、得することもある。
損損損ばかりの人生もある。
でも、何が得で何が損かも自分自身の解釈でしかない。
KYなんて言葉が存在するのも日本だからで、
多民族、多宗教、多人種、多国籍のイスラエルでは、空気を読むは通用しない。
ひとりひとりがハッキリと声に出して自分の主張をしなければ、通じないどころか命取りになる。
そのゆきすぎた自己主張が暴力であり、テロであり、戦争なのだから、やはり難しい。
特に三つ巴(ユダヤ教、キリスト教、イスラム教)であることで、
悪いところで奇妙なバランスがとれてこのような状態が続いているんじゃないかな。
どこも相手のテロリストを倒すより、同志のテロリストをなんとかすることが最善と思うのだけど。
といっても、どれがテロリストなんだか、政府さえテロリストのようにも見えるし、
自爆テロだって、上の人間がするわけじゃないでしょ。
いつだって、どこだって、結局弱者が利用されている。
弱者に出来ることは限られている。自爆テロしか自己主張のしようがない人間はそのような行動をとる。
パレスチナ問題も、貧しい者、弱い者、が犠牲になっている。世界中皆同じです。
神がいるとしたら、そんなこと絶対望んでいない。
人々の笑顔を見ていると、ひとりひとりは、悪い人なんていないって思う。
人は放っておいても、病気になる。放っておいても、いつかは死ぬ。
悲しみや苦しみは、それだけで充分だよ。
それ以外に悲しみも苦しみも与える必要などない。
せめて子どもたちだけでも笑って毎日暮らせていけるように、それが世界中の大人の義務に思う。