悠久の片隅

日々の記録

台風

日常の思想 (集英社文庫)

日常の思想 (集英社文庫)

明治百年の日本において、三つの価値が、価値の王座に君臨した。

一つは勤勉。

勤勉は、生産力の向上には、欠くべからざる徳である。

しかも、おくれてヨーロッパ文明を採用した日本において、勤勉は二重に重視される。

私は明治百年の日本人の第一の徳は、やはり勤勉ではなかったかと思う。

小学校の庭に二宮尊徳の銅像がつくられる。

しかもその像は、たきぎを背負い勉強している像である。

かつて多くの像を日本人は尊敬したが、この像ほど、ミミッチイ像はない。

一分の寸暇をおしんで働いている。

余裕がちっともないのである。

働け、働け、さらば救われん、そのような宗教が明治百年の日本人の宗教であった。

二宮尊徳の銅像は、悲しいまでにいじましいわれわれの自画像なのである。

二宮尊徳を尊敬しているので、ミミッチイと言われてしまうと悲しいけど、笑ってしまった。

今朝も10年に1度の大型台風が接近するといっているのに、

テレビ中継をみると仕事に向かう人で駅には人があふれている。

昔、人間が自然と一体だった時には、

台風のさなか、農作業に行くなんてこと考えられなかったと思う。

現代の人たちは自然に逆らいながら、自然をないがしろにしながら、

自分たちのペースで生きていくほかなくなっている。

またそのことをなんとも思わなくなってしまった。

今日学校がお休みになったのは確かな選択だと思う。

だけど、両親が共働きだったら、

この10年に1度の台風の中を子どもだけでお留守番させなければならない家庭もあったと思う。

それを仕方がないで済ませなければいけない社会はなにか変だ。違和感ある。

こんな日ぐらい、こんな日だから、

家族で家の中でゆっくり過ごすとか、ひとり暮らしの人に電話をかけるとか、

何時間もかけて苦労して通勤し、疲労困憊するより、そんなゆとりをもつことは罪なのかな。

勿論、雨がふろうが、槍がふろうが、どうしても仕事につかなければいけない人はたくさんいる。

その人たちのことまで言っているわけではなくて、

要は心の問題。

自然の脅威の前にひれ伏すことを忘れてはないかな。

どんな日でも電車が動いていることのほうが、尋常じゃない。

人の力が及ばない時には、及ばないなりの過ごし方をする。

人にはそんな日が大切で、そこから生まれるものを大切に思いたい。

勤勉は日本人の大切な徳だけど、勤勉も度が過ぎれば悪徳になる。

戦後100年、日本は勤勉さで物質的には豊かになった。

それでも、多くの人が「生活が楽ではない」という。

餓死する人はニュースになるくらいなので、餓死するほど苦しい人はごくごく僅かに思うけど、

それでも「生活が苦しい」という人が多くいる。

苦しいとか苦しくないは、いったいどの基準なんだろう。

何がどうしてどうなれば、生活が楽といえるのかな。

物質的な豊かさをまだまだ求めるなら、やはり勤勉しかないと思う。

寝る間を惜しんで働くしかない。

でも物質的な豊かさを追うばかりに、心の豊かさを失えば、

どれだけ勤勉であっても、どれだけ恵まれても、どこにも満足感はないと思う。

ただ、今さら日本人から勤勉さをのぞいたら、何もなくなりそうなので、

怠惰を推奨するわけではないけれど、

勤勉で何が悪いと言われれば、何も悪くない。勤勉は立派なことです。

世の中で困るのは、大抵、悪くないことだからややっこしい。

自然主体の生活から人間主体の生活に変わって、得たものも失ったものもある。

得た分だけ、必ず何かを失っている。

物質という目に見える豊かさは誰の目にも映るけど、失ったものが物質でないとすると把握しにくい。

本当に大切なものは目には見えない。