悠久の片隅

日々の記録

古文の基礎

古典を読みたくても、基礎がわかっていないから読めない。

高校の時、助詞とか助動詞とか習ったなー、な微かな記憶で、

どこからわからなくて、どこまでわかっているのかもわからない。

古文、漢文は、オマケ程度にしか思っていなかったから、その場しのぎで、いや、しのげるほどの勉強もしていない。

で、今回少し古典を勉強しようと思って書店を3件回ったけど、驚く程テキストが無い。

あるのは、大学受験用のテキストで、

数学、理科、歴史は大人向けのものがかなり出ているのに、古文は無い。

ということは、

古文は受験のためのもので、大人になるとまったくかかわらなくなってしまうのかな。

受験以降まったく疎遠になるものを、若い貴重な時間に学ぶ意味がなんなのか、

そこを考えることにも思いが及んでいない現状。

参考書の書棚は、普段ほとんど見ることがなかったから驚いた。

予備校講師の著作物がいかに多いか。

しかも目立つ。

学問は、学校より予備校の方がプロといった印象。

そして学問も商売であるという印象。

勉強は受験のためで、受験には受験のプロが書いたものが良いのでしょうね。

私には場違いな気がするけど、

受験であろうとなかろうと、学びたい中身は同じであると信じているので、

ピンポイントに学ぶには、私も受験生用でいいと、思う(笑)

望月光の超基礎がため古文教室 古典文法編 (ステップアップセミナー)

望月光の超基礎がため古文教室 古典文法編 (ステップアップセミナー)

この2冊を買ってみた。

最初のは中学生レベルかも。

でも自分がどこでつまづいているのかわからないので、基礎の基礎を外すわけにはいかない。

単語に関しては、英語と同じで覚えるしかないけど、私には無理なので単語は、

古語辞典を引きながらでいいとする。

次に文法。

これも法則だから覚えるしかない。

で、単語と文法がわかれば、古文が読めそうに思うけど、そうはいかないのが古文。

なので、読解も購入。

2冊をやれば、来年は古典が少し読めるようになるのかな。

昔の人の思いを同じ温度で感じたい。

それには、こちらから訪ねていくほかない。

千年という遠い道のりを訪ねるのは容易なことではないけれど、

急がなくても、変わりゆくものではないので、気長に、かなり気長にやっていこうと思う。

どうしても、古典が読みたいから。

『滝の音は 絶えて久しく なりぬれど 名こそ流れて なほ聞こえけれ』

これは誰だったか忘れたけど百人一首にあった。

滝の水は枯れ、もうその水音も聞こえなくなってしまったけど、その素晴らしさは人から人へ永遠に語り継がれる。

前半は消えゆくもののはかなさ、後半は『なこそながれてなほ』と、『な』が小気味よく繰り返されるのがいい。

百人一首は、音(言葉)の感触の良いものが好き。

この世にあるものは、いつかは皆消え去るもの。でも言葉や人の思いは永遠に残る。

芭蕉もそんな句を詠んだようですけど、

消え去ってしまうというのは、絶望感でもあるけど、消え去るから愛おしいのであって、

人間だってもし絶対に死なないように出来ていたら、かわいくない(笑)

目では直接見られなくても、触れることが出来なくても、心からは決して無くなりはしない。

無くそうにも、無くすことが出来ないのが、言葉であり、思いであり。

人間は立って歩くようになったために、声帯がまっすぐになって、言葉を発することが出来るようになった。

猿も完全2足歩行になり、声帯が人間と同じになったら、言葉を話せるようになるのかな。

猿だけじゃなくイモ虫だって。

手塚治虫火の鳥では、進化がちょっと変わったことにより、ナメクジが立って歩いて文明を築いていた。

言葉をもつと、思考を多くの者の間で共有、文字が生まれ、積み重ねることが出来、文明が発達する。

猿の惑星の時代がいつか来ないとは限らない。

その時人間は気づくのかな。

言葉を持った者が、自分たちを中心におき、地球上を好きなように操ることがいかに横暴か。

それともそれを受け入れることが生物として当たり前の宿命と支配者に膝まづくのみかな。

他の生物からしたら、人間は悪魔。

人間が素晴らしいなんて言ってるのは人間だけだと思う。

そう思わないと生きていけない。

古文の参考書は、品詞から始まった。

『古文で使う十個の品詞をすべて書きましょう。』

ヒィ~~~~~

十個もあったけ。

名詞、動詞、形容詞、形容動詞、助詞、助動詞、連体詞、連用詞、副詞。

あれ・・・

わからない・・・

しかも、連用詞なんて無かった。

古文というより小学生の国語でツマヅイテイル状態かな。