悠久の片隅

日々の記録

大切な物はいつだって目に見えない。

言葉の力、生きる力 (新潮文庫)

言葉の力、生きる力 (新潮文庫)

この本の中に、映画にもなった『飛鳥へ、そしてまだ見ぬ子へ』の井村先生のことが書いてあった。

井村先生の思い、言葉、今読んでもやはり泣いてしまう。

「ふたりの子供たちへ」より。

心の優しい思いやりのある子に育ちますように。

父親がいなくても、胸を張って生きなさい。

私は最後まで負けない。お前達の誇りになれるよう、決して負けない。

だからお前達も、これからどんな困難に遭うかもしれないが、負けないで耐え抜きなさい。

星の王子様のサン・テグジュペリが書いている。

大切な物はいつだって目に見えない。

人はとにかく目に見えるものだけで判断しようとしているけど、

目に見えているのは、いずれは消えてなくなる。

いつまでも残るものは、目に見えないものだよ。

人間は、死ねばそれで全てが無に帰する訳ではない。

目には見えないが、私はいつまでも生きている。

お前達と一緒に生きている。

だから、私に逢いたくなる日がきたら、手を合わせなさい。そして心で私を見つめてごらん。


お母さんを守ってあげなさい。

二人の力で守ってあげれば、どんな苦労だって乗り越えられるよ。

そしてもし、私が死んだ後、お母さんが淋しがっていたら、慰めてあげなさい。

思いやりのある子とは、周りの人が悲しんでたらともに悲しみ、

喜んでいる人がいたらその人のために一緒に喜べる人だ。

思いやりのある子は周りを幸せにする。

周りの人を幸せにする人は、周りの人々によって、もっともっと幸せにされる、

世界で一番幸せな人だ。

だから、心の優しい、思いやりのある子に育って欲しい。それが私の祈りだ。

さようなら。私はもう、いくらもおまえたちの傍にいてやれない。

おまえたちが倒れても、手を貸してやることも出来ない。だから、

倒れても倒れても自分の力で起き上がりなさい。

さようなら。お前達がいつまでも、いつまでも幸せでありますように。  

雪の降る夜に 父より  


「それでもまだ死にたくはない」より。

死にたくはありません。生きのびたい。せめて五年。

せめて五年の猶予があれば、建ててみせる。

目が見え、耳が聞こえ、手足がちゃんと自由になり、好きな所へ行け、したいことができる、

そんな幸福な人間たちには決して造ることのでできない病院造りをしてみせます。


(井村先生が永眠される一ヶ月前、勤めている病院の朝礼に最後にのぞまれた時の言葉)

「私の心には三つの悲しいことがあります。

一つめは、どうしても治らない患者さんに何もしてあげられない悲しさです。

二つめは、お金のない貧しい患者さんが、病気のことだけでなく、

お金のことまでも心配しなければならないという悲しさです。

三つめは、病気をしている人の気持ちになって医療をしていたつもりでも、

本当には病気をしている人の気持ちにはなれないという悲しさです。

ですから、私は皆さんに、

患者さんに対してはできる限りの努力を一生懸命していただきたいのです」


「再発」より。

その夕刻。自分のアパートの駐車場に車をとめながら、

私は不思議な光景を見ていました。世の中が輝いてみえるのです。

スーパーに来る買い物客が輝いている。

走りまわる子供たちが輝いている。

犬が、垂れはじめた稲穂が雑草が、電柱が、小石までが美しく輝いてみえるのです。

アパートへ戻って見た妻もまた、手を合わせたいほど尊くみえたのでした。

この現象は、著者の柳田邦男にもあったという。

大学生の息子さんが自ら命を断とうと、脳死状態になったとき、そのベッドサイドで

同じような現象が起きた。

そういえば、

やはりこの本の中に書かれている神谷美恵子さんにもこの現象はあったことを前に読んだ記憶がある。

そして私も同じ経験がある。

苦しくて、苦しくて、どうにもならなくて、仏壇の前で「助けて。助けて。」と、

ずっと手を合わせていたところ、

なんのきっかけもなく、突然世界が輝いて見えた。

右を見ても、左を見ても、何もかもがキラキラ輝いているので、驚いて隣の部屋に行ってみたら、

やはり隣の部屋もすべて輝いている。

いつもの見慣れた風景なのに、いつもとまったく違う。

おかしな話だけど、テーブルや椅子さえ生命をもったように生き生きとしている。

それまでに見たことの無い眩さで、自分が光に包まれている感じがするのです。

部屋の埃が日に当たってキラキラ舞うのの百倍、千倍の光のつぶつぶが、

見える範囲全部に降り注いで全体が黄金色に輝いている感じです。

それと共に、自分の周りに柔らかな暖かさを感じました。

気づけば、今まで苦しかったことが、スっとほどけて、

心の痛みが嘘のようになくなっていました。

あれだけ苦しんだ悩みごとが一瞬でかき消されてしまったのです。

あまりにもハッキリとした視覚と温感の変化に、何が起こったのかとキョロキョロしたのですけど、わかりません。

後光がさすという言葉があるけど、まさにそんな感じ。

とにかく、死ぬほどの苦しさから突然解き放たれたのは確かで、

自力とは思えない、自分の外側のなんらかの力で救われ、今までにない幸福感に浸されたのです。

でも、

今思えば、自分の外部でキラキラしていたのか、

あるいは自分の網膜あるいは脳内でキラキラしていたのかが、ちょっとわかりません。

このような体験というのは、死と向き合うような切羽詰った場面で、時折あるそうです。

著者は、

「脳内の視覚神経に何らかの変化が生じ、突然イメージの発光現象とでも呼ぶべき現象が

起こるのではなかろうか。

それは、心のなかに、穏やかで温もりのある安定感をもたらすすばらしい体験である。

そういう体験をする人としない人の違いは、感受性のやわらかさが関係しているのかもしれない。

ともあれ、そういう体験を貴重なものとして胸に刻むなら、その人の生き方や対人関係が変わるほどの

内面的な豊かさがもたらされることさえあるのではないかと、私は考えている。」

と推測されていますが、

私は感受性は鈍い方だと思う。

感受性というか、私全体が鈍いことは自覚しています。

あの時、私はあのキラキラが私を包み、私を至高の世界へ誘ってくれたと感じたのですけど、

もしかすると、

悩むだけ悩んで、考えるだけ考えて、

そうしたら脳内スイッチがショートして、自分の意思とは別の次元で吹っ切れしまって、

全身全霊安堵に包まれはしたけど、

それは実は深層の部分の話で、意識レベルでは気づかないで、

安堵の肉体的な反応が、光や温感にあらわれたかなと。

たとえば瞳孔が開くと、眩しく感じる。

普通明るい場所では瞳孔は縮むのだけど、極度の緊張から突然解き放たれたことで、散瞳状態になったとか、

今まで緊張で凍りついていた体温が、ふっと上がったとか。

思いつめている時って、とてつもない脳の緊張状態が続いていると思うのです。

それが解き放たれたことで、ものすごい幸福感に包まれるというのは、ありえる気がします。

あの時は確か4日間ほど食事も摂らず、ただ仏壇の前で手を合わせていたというか、

なんだか修行僧みたいでした(笑)

なので飢餓状態で神経が研ぎ澄まされたとか、

疲労の限界を超えていたとか、

なんらあってもおかしくはない状態になっていたのかもしれません。

こんな話は、リアルには誰にも話したことがない。

でも、光から生命力を与えられたあの時以降、心が楽になりました。

時々思う。

本当の本当は、いつもいつも世界は光輝いていて、

でも普段はそれが見えないだけかもしれないって。