悠久の片隅

日々の記録

与えられたものの重さ

今日は換気扇のお掃除をして、キッチンは終了。

起きた時は寒かったけど、お掃除しているうちに暑くなって、窓も全開で一心不乱に磨いてました。

一心不乱。一つの心乱れず。か・・・

よいね。

無想は、ストレスが浄化されるように思う。


最近、国内のニュースはほとんどみなくなった。

海外のニュースの中で、日本のニュース見るけど。

日中関係の悪化を、

「火遊びもほどほどにしないと、本物の火事を起すことだってある。」とはアンカーの言葉。

世界から見れば、日中のいざこざは所詮火遊び程度で、

中国とアメリカの緊張もゲームという言い方をしていた。

確かに、世界中で今すぐの助けが必要な地域はいくらでもある。

中央アフリカでは今、宗教対立で極度に治安が悪化している。

イスラム教徒が60人殺された翌日にはキリスト教徒が1000人殺された。

孤児になった子どもたちにマイクを向ける。

「何があったの?」

「お父さんがナタで殺されたの。」

ナタ・・・

化学兵器とかじゃない。

ナタ・・・

きっと普通の人が普通にナタを手にし、普通に人を殺してしまうんだ。

どの子の顔にも笑顔はない。

シリアの子どもたちとは対照的。

子どもたちは、先の希望がまったくみえないのだという。

何もかも見通すような透き通った瞳の奥で彼等は生きる希望すら失くしている。

貧しい国というのは、

子どもたちには教育の権利もない、子どもは食べるための労働力でしかない。

イエメンでは10歳から娘を結婚させる。

親が嫌がる娘をお金のために嫁に出してしまう。子どもに権利はありません。

私は曽野綾子の「それぞれの山頂」という本を時々取り出します。

曽野綾子は、たびたび途上国を訪ね、支援活動を続けています。

温く生きる日本人には、なかなか耳の痛い発言をするのですが、

それが快く響いてきます。

しかし私は家庭内暴力にも、アメリカの無差別爆撃にも、感謝したのだ。

私は親子の恩愛の複雑さを知った。国家が平然と犯す犯罪は通ることも知った。

それこそ私のものの考え方を太く複雑にする最大の教育であった。

私はアフリカの子供たちをたくさん見た。

生きていることに呆然としている子どもは多かった。

彼らは孤児で、病気で、貧しくて、食べるものがなくて、国家もまた無力だった。

彼らは、親も、教育も、健康も、食べ物も、助けてくれる親戚や友人も、才能も、

救援の制度も、国家的未来も、何一つ見いだせないために、動物のように立っていた。

それらの子供たちを前にして、「子供の最善の利益を何より優先して考える」とは何なのだ。

やはりこういうふうに思い上がってしかも甘い大人には、俯いてしおらしく「ありがとう」と

言っておく方が無難だろう。

いじめがあったら国連軍が出てきて、やっつけてくれるのか。

制服を着せられるのが人権無視だと国連に訴えて来てお得意になっている日本の子どもたちには、

一度垢色の粗布のようになったボロを着せて、冷たい雨で濡れたまま山野を歩かせてみたほうがいい。

そうか。

今日、テレビで見た中央アフリカの子どもたちは『動物のように立っていた。』

というのが的を得た表現でしょう。

笑うでもなく、泣くでもなく、感情も表情も意志も失い、ただ呆然としていた。

今、日本では、子どもにとってつらいことがないように。親も社会も必死にそれを優先する。

子どもが苦しんでいるのは見ていられません。

でも結果、子どもたちは耐える力を育てることが出来なくなってしまった。

その時は良くても、将来を考えれば不幸なことなのかもしれない。

大人になって社会に出れば、社会が1から10まで助けてくれるわけではない。

特に、本当に必要なとこにほど、助けの手が届かないのが現状です。

泣いても叫んでも、社会はそうそう甘えさせてはくれない。

絶望を知らないまま大人になれる方が良いのだろうけど、

現実には絶望が存在する。

それを知らないままでは、思い上がった大人となり、思い上がった国となる。

世界にはまだまだインフラ整備が整っていない国は多いです。

古代ローマ帝国に及ばない国がいくらでもあると思います。

日本は江戸時代でしょうね。

他国と戦わずにすんだ300年のあいだに国内整備や国民の学問がガッチリ行われた。

世界ではその期間、ずっと隣国との争いに明け暮れていた国の方が多いのではないでしょうか。

江戸時代の300年で日本の基盤を作ることが出来たように思います。

アフリカでは未だに道路も未舗装で、隣町まで連れて行くあいだに病気の子どもは息絶えてしまう。

インフラ整備は、そういう国に必要なのであって、

今の日本なら東北に必要であるとしても、オリンピックのために東京の整備など、

本当の本当に必要があるのかと。

世界はどこもかしこも自国の防衛で手一杯、なので国内の開発まで手がつかず、

ビジネスチャンスなど世界中どこにだってあると思います。

それに躍起になっています。

でも本当は、ビジネスチャンスにならないところへの投資こそ望まれます。

ビジネスチャンスを中心においたら、

世界はもっともっと両極化してしまいます。

世界は市場として存在しているわけではない。

貧しい国は、ゲリラになれば食べ物にありつける。そんな若者も多く、

貧しさから、人間の尊厳を失い、悪に向かっていってしまう場合も少なくないでしょう。

世界のニュースを見ていると日本は貧しい国のように思えます。

あまりに世界が見えていない。

これだけネット環境も整っているのに、島国のまんまの井の中の蛙です。

たとえボロ布であろうと、それが神から与えられたものであるなら、

胸を張って使って行こう、というスモーキー・マウンテンの信者たちの気持ちに私は共感する。

たとえ人間的な欠陥であろうと、マイナスの健康や才能であろうと、辛い境遇であろうと、

それが個人に与えられたものならば、それを元に生きていくのだ。

それが私たちの出発点であり、それが生涯をかけたテーマとなり得るのである。

もちろん政治や社会が、その人の苦しみを放っておいていいということではないが、

政治や社会は個人の魂の「最後の最後」の地点まで救済をすることはできないのだ。

それは個人に任されている。

曽野綾子の言葉は厳しいけど、上滑りでない現実を見据えた言葉だと思います。

『それを元に生きていく』当たり前のようだけど、全然当たり前でない言葉のように思います。

人は、ひとつのテーマを生きていく(1つではないかもですけど)

『それは個人に任されている』

どんな境遇でも、最後の最後救済出来るとしたら、それは自分自身しかない。

何度読み返しても、そのたびにハっとさせられます。