この世の偽善
昨日、今日、お買い物にも出ず、とにかく寝て身体を休めています。
いっぱい寝た
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昨日届いたこの本、もう読んでしまった。
『内容紹介』
日本人は長年「もの分かりのいい人」を演じてきた。
弱者保護や被害者救済など一見、弱い者の側に立つふりをし、政治家は票欲しさに「ばらまき」政策を行なっている。
その結果、わが国は過去最多の214万人を超える生活保護者を擁する「よい国」になった(2012年)。
しかし、彼らは本当に自立できない人たちなのか。いまの日本は本当に職がないのか。そう問うことは禁じられている。
ボランティアについても、人の世は、一ついいことをしようと思うと、必ず不都合と苦悩が出てくる。
人生にも「あれか、これか」という形の歯切れのいい選択はない。
メディアは社会や国家の批判はしても、本質的につきまとう人生の不都合や不自由を見せない。
これが「日本の偽善」である。
「権利」という言葉は、誰かのため、何かのために自分が我慢し、犠牲になることがある、という想像力を失わせてしまう。
一所懸命働いて税金を納める、まずそこから始めるべきではないか。
2人のおばさん(曽野綾子、金美齢)が、今の幼稚化した日本社会を正面からぶった切っています。
この世で、人間が他者に要求してはいけないものが三つあります。
「自分を尊敬しろ」と言うこと、
「人権を要求する」こと、
「自分に謝れ」と他人に言うこと、この三つです。
これら三つは要求した瞬間から、相手に侮蔑の念を抱かせるものです。
尊敬に値する人は決して「自分を尊敬しろ」とは言わないものですし、
「人権」は要求して与えられるものではない。
人権を要求して得るものは、金か、制度だけです。
しかし愛は違う。私たちは温かく包み込むような愛を贈るべきだし、愛を与え合う存在になるべきだと思っています。
「自分に謝れ」というのも最低の行為です。
謝れと言わなければ謝らない人に謝罪させる方法は、法以外にない。
口先だけでいいのなら、人はすぐ謝ります。
しかし同時に軽悔の念が発生する。
個人の関係でも国際関係でも、通常「謝れ」という時は「金を出せ」ということですが、
日本人にはそれがなかなかわからないですね。