悠久の片隅

日々の記録

春風夏雨

春風夏雨 (角川ソフィア文庫)/岡 潔

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岡潔

世界の3大難問を1人で解いてしまったほどの天才数学者というのが、ピンとこない。

それだけの功績があるのに、そんなことなど片隅にも漏らさず、ひたすら心の世界を語り続ける。

しびれます。ようやく目が開いて少しモノが見えるようになった気がしてしまう。

それは単なる気分だけかもしれないけど。

西洋人は意思に突き動かされ考える。

こうした方が良いのではないか、いや、ああした方が良いのではないか。

でも日本人は、もっと深層の部分、意識の無い部分。そこに突き動かされ行動をとる。

資本主義と共産主義

これはあくまで意思。個人の思い。

最初に共産主義が崩壊し、それみたことかと言っていた資本主義も今となってみれば、

激しい生存競争が格差社会を生み、これが理想の社会とは決して言えない。

結局、どっちもどっち・・・

論理(意思)と言うのは論理だけで突き詰めれば、必ず崖から転げ落ちるようになっている。

落ちたらまた一から始めればよいのかもしれないけど、

とにかく意思や感情から出たものは、どこかで矛盾が生じる。

東北大震災で日本人がきちんと並んだこと。

われ先へと、略奪、強奪が見られなかったこと。これが世界的に称賛された。

主人曰く、中国は並ぶということを知らないよ。並ぶという文化が歴史上ない。

と言った。

本当かどうかは知らないけど、とにかく列車が着けば、われ先だそうだ。

日本人は当たり前に並ぶということが出来る。

それは意思ではない。当たり前の感覚、深層の部分で行動がとれる。

岡がいうのには、

心には浅いところの情(嬉しいとか悲しいとかの感情)と深層の無意識の情(真情)があるという。

西洋は情、意思が優先され、日本人は真情が元にある。

西洋には『神』という絶対主がいる。神の意思の元、道徳がなされている。

でも日本には、何も無い。

なのに何故並ぶか。

それが道徳でそんなもん理屈で言っても仕方ない。

でもそこに美が存在する。

岡の数学もそれと同じで、真情を突き詰めた美しさが難問を解く集中力へと変換されている。

だから、数学は心(真情)が無ければダメだという。

真情とは、無意識のうちにもっている日本人の心。

聖徳太子憲法17条が『和』で出来ているのも、

日本には『和』が元からあるもので、

深層に人と争うことを忌む真情があるのだと思う。

集団的自衛権にしても、

よその国と手をつなぎ悪と戦い国を守ることには同意はしても、

どこかと仲良くなることは、仲良くならない人たち、すなわち敵を作ることにもなってしまう。

アメリカはヒーローの国だから、悪には敢然と戦う姿勢が徹底している。

でも日本的感覚は、

集団的自衛権が良いことだとしても、

こちらが敵と思っていない相手から敵対心をもたれてしまうことは、心情としてなんとなく嫌なのだ。

この『なんとなく』が真情なのだと思う。

もちろんテロは絶対許せないという感情はある。

でもその感情の下に自ら敵を作ってしまうことへの嫌悪感は拭いきれない。

理想でいえば、世界の誰とも敵になりたくない。

そしてそれが出来るのは、

世界に民族多しといえども、日本人だけなのじゃないかと、理想だけ追えば思う。

要するに、

感情(浅いところの情)から生まれたものは破綻をする。

真情(深いところの情)から生まれたものが本物。

日本は法治国家憲法が国の一番のきまりごとだけど、

その憲法集団的自衛権など)だって危ういものでしょ。

それは憲法はあくまで意思だから。

憲法がすべてだとしたら、どこかで必ず行き詰まる。

それが今なのかもしれない。

でも、慈悲の心というのは、法律と次元が違う真実で、

これは言葉にならないから議論にもならないけど、

そこに突き動かされて為したものだけは澄んだ人間の心で、

あの災害時に並ぶというのは、助け合おう!の精神で、

助け合おうは、憲法にそんな決まりはない、ましてや神の意思でもなく、

それをした日本人は、やはり理屈でなく日本人であり、世界に誇れる民族(集団)であることがわかるし、

社会をそこを抜きに意思だけ成り立たそうとすると必ず行き詰る。

中東やアフリカで歴史的にくり返される惨劇。

あれはどう考えても理解できない。

それは宗教、陸続きの領土争い、他民族であることなど、

日本には無い難問に起因しているというのはあるとしても

やはり日本人にはあそこまでの憎しみや敵対心を、抱き続けるそこまでの競争心闘争心がないと思う。

だから、普通に理解が出来ない。

日本人なら理解出来ない方が当たり前。

そもそも和には競争心はない。

競争を忌むから談合なんてものも生まれ、長い歴史の中に根付いてしまったのだけど、

テストで競わせるのも、近年のこと。

それまで助け合って学ぶもので、人と競うものではなかった。

岡は子供の頃に競争心を植えつけるのはよくないという。

子どもをどう教育するか、どう育てるか。

それは意思で、

そうでなく、

子どもを誰が教育するのか、どんな人が育てるのか、そこをもっと考えていかなければいけないという。

意思ではなく、感じるもの。

日本人は真情で感じる、

それが万葉集であり、芭蕉であり、宮澤賢治なのだけど、

西洋の感じるは、インスピレーション的なものに非常に優れ、

日本はその部分がとても弱いという。

そりゃそうだ、なんてったって『和』なのだから。

あまり突飛な発想は生まれにくい土壌なのでしょう。

そこをカバーしている部分が真情だという。

美しいものを美しいと直感する心。そこへの集中力で岡は数学の難問を解いていく。

情から起こらなければ到達しない道・・・

そこが近頃の日本人に欠けてしまった。

西洋から様々が入り込んで、真情で感じるより感情や意思で行動するようになってしまった。

日本人にも当たり前だが、感情がある。

だから、子どものうちに競争心より感情のコントロール(自我を抑える)を憶えさせる必要がある。

ここで無差別智を説明しておこう。

無差別智の意思的内容は強靭な意志力である。

たとえば、運悪く大岩の上に落ちた松の実が、少しづつ硬い岩の中に柔らかい根を下していって、

終いには、さしもの大岩を割って大地に根を下ろすような力である。

無差別智の情的内容は心の悦びである。

これがなければ、心がひもじくて、とうてい研究は続けられない。

無差別智の知的内容は純粋直感である。純粋というのは、五官を通さないという意味である。

ポアンカレーがふしぎな知力として『科学の価値』の数学上の発見の章で述べているのは

この知力のことである。

自我を抑えて無差別智を働かせている時には真我があらわれる。

私についていえば、数学の研究に没頭している時は、私は生きものは決して殺さないし、

若草の芽もみな避けて踏まない。

だから真我の内容は慈悲心であることがわかる。

私はこれを数学の研究によって体験したのだが、真、善、美、どの道を進んでもみな同じだと思う。