悠久の片隅

日々の記録

白い都のヤスミンカ

昨日は1時に仕事を上がった。

帰ってきてお腹が空いたので、

しらす、ゆかり、刻んだ大葉をご飯に乗せて、少しお醤油たらして食べた。

美味しい♪

白米は優しくて好き。

嘘つきアーニャの真っ赤な真実 (角川文庫)/米原 万里

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万理(著者米原万里子)は9歳から14歳までプラハソビエト学校へ通う。

プラハソビエト学校には世界50カ国以上の共産党員の子女が通う)

その後日本に帰国し、プラハソビエト学校時代の友人とは疎遠になっていくが、

やがてソ連が崩壊。

東欧にも民主化の波が押し寄せ、社会主義体制が崩壊していく。

激動の東欧、友人たちの消息はわからない。

ギリシャ人のリッツァ。

ルーマニア人のアーニャ。

ユーゴスラビア人のヤースナ。

万理は安否を尋ね混乱の東欧を訪ねる。

そこで知った彼女たちの真実。

子どもの頃わからなかったことが、次々とあきらかになっていく。

真っ赤な嘘でなく、真っ赤な真実とは、見えざる共産党の真実ということなのでしょうね。

この物語は、

リッツァの夢見た

嘘つきアーニャの真っな真実

白い都のヤスミンカ

の三作からなる。

この青、赤、白は、自由と革命の理想を象徴した汎スラヴ色。

ロシアなどで国旗に使われている色。米原万理さんのそういうスパイスに唸りたくなる。

激動の共産圏の出来事はとてもとても重い真実なのだけど、

子どもの頃の万理のまっすぐな目線、

それが大人になっても変わらない少女の目線なので、

重さよりも友人への真摯な気持ちがこの物語をぐいぐい引っ張っていく。

今もなお世界では、戦争、紛争が絶えないが、

結局、自分の目の前のひとりとどう向き合えるか。

民族とかイデオロギーとか国家とか途方も無い話のようで、紛争のすべてはそこなのだと思う。

目の前のひとり・・・

みんなわかっている。それが簡単なようで、とても難しいことを。

私がヤースナに近付きたかったのは、ヤースナ自身の魅力もさることながら、

もうひとつの理由が明らかにあった。

世界の共産主義運動の中で、左派に位置すると見られる日本共産党員の娘のである私が、

最右翼の位置すると思われているユーゴスラビア共産主義者同盟員の娘ヤースナと仲良くなることで、

論争と人間関係は別なのだということを、なんとしても自分と周囲に示したかった。

ヤースナは葛飾北斎が好きで神とまで慕っていた。

北斎が好きだから日本人の万理に近付いた・・・という下心があったようで恥ずかしいと万理に語った。

万理は、自分の方こそつまらない動機で近づいたことを告白しながら、2人して涙する。

自分たちがおかれている立場を慮っての悲しい涙とわかり合えたうれし涙。

たかだか10やそこらの子どもがここまで相手に配慮をし、悲しみも喜びも分かち合うことが出来る。

『マイナス体験が人格を作る』というように、

相手への思いやりは、悲しみの中から生まれるものなのかも。

そんな子どもの気持ちを裏切るかのように、日本とソ連共産党の対立は激しさを増す。

しかし、在プラハソビエト学校当局と先生方は、

それに大多数の保護者たちは最大限配慮してくれた。

日ソ共産党論争については、授業で扱うことを一切しなかった。

イデオロギー論争における自国と、自国の党の正当性を子どもたちに教え込むことよりも、

子ども同士の人間関係のほうを優先して考えてくれたのではないだろうか。

これには少なからず驚かされた。

共産党というものは、他者を徹底的に非難するという思い込みが私の中にあって、

共産党のその理想と現実の違いがどうにも理解出来ないでいたけど、

こういう事実もあるのだなあと。

私が5年間通ったソビエト学校の肩をもつわけではないが、

肉体的特徴を嘲笑するようなあだ名を付ける風習は皆無と言っていいほど珍しかった。

そんなことをするのは、最低の恥ずべきことであるという暗黙の了解が生徒たちのあいだに

あったのかもしれない。

もっとも、このことに気付いたのは、日本に帰ってからだ。

私としては、おそろしく無神経で野蛮な人々の集団の中にいきなり放り込まれた気がして

憂鬱になったのを覚えている。

ヨーロッパなどではエリートはエリートとしての教養教育がなされていて、

国を引っ張ってきたのは貴族だったり、紳士だったり一部のインテリで、

アッパーミドルとその下では考えかたも違う。

プラハソビエト学校はエリートの子女が通う学校なのだと思う。

日本は貧乏な下級武士からでも寺子屋で学び、頭角を現すことが出来た。

上がダメだと、下からの力がわきあがって、日本を変えてきた。

上から下まで血も気質も混じりあっているのが日本で、

それが礼儀正しい中に、粗野な部分もある。ということになったのかな。

世界の中で、政治家対政治家というトップ同士になると、日本は到底敵わない。

それは子どもの頃から仕込まれている教養の差かもしれない。

『自分の目の前の人に敬意をもつ』

ヨーロッパの人などは意識としてそれを心においているけど、

日本人はどうなのだろうか。

無意識にもっているのか、

それとも平等という点において、特別な敬意はもっていないのだろうか。

わからないけど、

日本は学問においては力を入れていても、

教養という部分においてもう少ししっかり教育なされた方がよいように思う。

相手を知ること。これが未知の人と人が付き合っていく上でとても重要に思う。

万理はヤースナの消息を訪ねベオグラードから激戦区サラエボへ行こうとする。

するとガイドさんが言う

「ちょっと待ってよ、米原さん、何を言い出すの?!

国境は完全に閉鎖されてんのよ。今の冗談でしょ?!

そりゃあ、行こうと思えば行けるけど、命がいくつあっても足りないよ。

こないだ、

ボスニアからクロアチア人勢力のテロを逃れて国境を越えようとしたセルビア人難民グループが

国境の手前でクロアチア勢に襲撃されている。

成人男子の百名近くが全員虐殺された。

女は陵辱され、五歳未満の少年たちは、全員オチンチンをカットされたのよ」

これが民族の紛争なのだ。

自分たち民族の繁栄と他民族を滅亡させようと、こんな残酷なことをする。

ボスニア・ヘルツゴビナはハプスブルグ朝、

オスマン朝両勢力の角逐の場であったせいもあって、

このカトリック東方正教イスラム三つの文明が複雑に入り乱れている。

しかも旧ユーゴにあって「南北」格差が極端に拡大するなかで、

経済先進地域とカトリック圏、後進地域と正教圏がほぼ完全にオーバーラップしていた。

つまり、旧「東」においてさらなる東西分裂が進んでいたのだ。

それが最も熾烈な形で表れたのがユーゴ他民族戦争なのかもしれない。

この矛盾を背景に、容貌上の特徴も言語も双子のように相似形の、宗教だけを異にする

カトリッククロアチア人勢力と正教のセルビア人勢力の対立を主軸とし、

それにボスニアムスリム勢力が巻き込まれた形で今回の戦争は展開した。

各勢力とも優劣つけがたい残虐非道を発揮した。

ロシア語が理解出来る私には、西側一般に流される情報とは異なる、ロシア経由の報道に

接する機会がある。

だから、「強制収容所」も「集団レイプ」も各勢力においてあったことを知っている。