悠久の片隅

日々の記録

沈黙。とりとめもなく。。。

朝晩の空気の冷たさに、秋の深まりを感じる。

沈黙 (新潮文庫)/遠藤 周作

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神に対する愛は盲目的な愛に思う。

疑うことを知らない。

でもそれは、『盲目的に神に愛されている』という前提があってのこと。

自分は神に愛されている。そう盲目的に信じるところから始まっている。

前提があるということは、盲目的ではない。

でも神は沈黙を続ける・・・

信じても信じても、神は救いの手を差し伸べてくれるわけでもない。

そうなると、

神の存在意義がわからない。

助けてくれない神なら、いても、いなくても、同じような気がする。

その時、「本当に神はいるのだろうか?」

と、初めて疑問をもつ。

ロドリゴに疑念が浮かび上がる。

(しかし、万一・・・もちろん万一の話だが)胸の深い一部分で別の声がその時囁きました。

(万一神がいなかったならば)

これは怖ろしい想像でした。

彼がいなかったならば、何という滑稽なことだ。

もし、そうなら、杭にくくられ、波に現れたモチキやイチゾウの人生はなんと滑稽な劇だったか。

多くの海をわたり、

三ヵ年の歳月を要してこの国にたどりついた宣教師たちは

なんという滑稽な幻影を見つづけたのか。

そして、今、この人影のない山中を放浪している自分は何という滑稽な行為を行っているのか。

怖ろしい。。。

神の存在を疑えば、自分のやっていること、やってきたこと、歴史上の苦難の数々、

そのために散っていった者たち、すべてが否定される。

盲目的に神を信じていたほうが楽なのだ。それは自分への肯定になるのだから。

自らを正当化する唯一の拠り所が神である。

でもロドリゴは悩み、考え続ける。

それは勇気ある一歩。

そこに神の沈黙の意味が生まれてくるのだと思う。

「自分で考えなさい。そこから出た行為は、自分(神)は全部受け入れるよ」

神は、盲目的な愛を望んでいるわけでも、強制しているわけでもないように思う。

考えて・・・考えて・・・

それでも慕うものすべてに「それでいい」と。

神は・・・

もし神がいるとするなら、

それは、人に『自分で考える』ということをさせる為ではないかな。

考えて、考えて、

それでも自分自身に弱かったり、失敗したり。

キチジローは、自分の弱さゆえ、何度も裏切る。

それでも、キチジローは何度も何度も神にすがる。

そんなキチジローをロドリゴは神に代わって許しを与える。

「パードレは決して余に負けたのではない」筑後守は手あぶりの灰をじっと見つめながら、

「この日本と申す泥沼に敗れたのだ」

「いいえ私が闘ったのは」司祭は思わず声をあげた。

「自分の心にある切支丹の教えでござりました」

日本と申す泥沼・・・

トモギ村の農民の生活は悲惨だった。

収穫乏しい恵まれない土地で、重い税だけを課せられ、

牛馬のように働き、牛馬のように死んでいく。

その一生の、どこにも救いがない・・・

何故自分たちがこんな目にあわなければいけないのか。

その不条理に神も仏も無いのではないかと。

そんな時、人は最後の拠り所として母なるものにすがりたくなるのではないか。

それがマリア様で、

彼等は神棚ももち、仏壇もあり、そしてマリアに愛を求めた。

これでは、唯一の神であるという根本的キリスト教の教えに反する。

隠れキリシタンとは、本来のキリスト教とは、教えが異なるものになっていた。

でも、それは誰も責められない。

必死に生きているものを誰も責めることなど出来ない。

新しい文化は無条件で受け入れられるわけでなく、その土壌あってのもので、

自分たちの風土と馴染みながら人々の心に浸透していく・・・

悲しいね・・・

人が人を傷つけてしまう悲しさ・・・

誰もが傷つけられるのはいやなのに、

傷つける人がいない世界はない。

傷つける方、

傷つけられる方、

1人の中に両方があるんだろうね。だからなくならないんだろうなあ。