悠久の片隅

日々の記録

「明治」という国家 覚書

「明治」という国家/司馬 遼太郎

¥1,888
Amazon.co.jp

イデオロギーにおける正義というのは、かならずその中心の核にあたるところに「絶対のうそ」があります。

「在ル」とか「無イ」とかを超えたものが"絶対"というものですが、そんなものがこの世にあるでしょうか。

ありもしない絶対を、論理と修辞でもって、糸巻きのようにグルグル巻きにしたものがイデオロギー

つまり"正義の体系"というものです。

イデオロギーというのは、一般的にはドグマを核として、人間や社会のなかから正と邪、善と悪を

選別する体系のことです。朱子学もまたそうです。

儒教、とくに朱子学が毒でした。

破滅的なばかりに自己中心的な考え方で、当然ながら外国は蔑視すべきもの、

あるいは異文化などは一切みとめぬ、

さらにいえば民族を自己崇拝という甘美な液体に浸からせるという思想で、

要するに自分の文化以外の世界については思考まで停止しきっているといったものでした。

日本の封建制度とは、

学問、芸術、医術、武術に秀でた者は、たとえ百姓の出であっても、幕府であると諸藩であると問わず、

相当な身分に登用されるという特例つきの封建制であることです。

商品経済つまり貨幣経済は、モノというものを見つめます。

モノを数量で見ます。質で見ます。

さらには社会と自分のかかわりで見ます。

当然そこから引き出されるのは、封建道徳でなく、合理主義であり、個の自由というものです。

側近もしくは下僚による政治は、封建日本の一特徴でした。

補佐政治は因循停滞こそ善だという泰平の世のものなのです。

海舟は偉大です。なにしろ、江戸末期に、「日本国」という、たれも持ったことのない、

幕藩よりも一つレベルの高い国家思想、当時としては夢のように抽象的な概念を持っただけでも、

奇跡的な存在でした。

明治維新の最初の段階において、幕府代表として、幕府みずから自己否定させ、

あたらしい"日本国"に一発の銃声もとどろかせることなく、座をゆずってしまった人なのです。

たれもが、この日本使節に感心した。頭の内容でなく、その挙措動作、品のよさと、

毅然とした姿に、です。

首都やニューヨークに出現した、この未知の民族について、異文化とはいえ、

大変上質なものを感じたのです。

江戸270年の文化の上澄みが、ブロードウェイを行進したと考えていいでしょう。

この幕藩国家というのは世界史に類のない日本独自のものです。

西暦1600年の関が原ノ役によって出来上がった体制で、あくまで歴史的産物です。

"徳川家とは大名同盟の盟主である"

盟主である徳川家は「幕府」という政府をもっています。

この政府は、徳川家という、いわば本来、私的な一軒の家の収入によって運営されていまして、

日本じゅうの人間からまんべんなく税金をとって政府が運営されているのではないのです。

なにしろ日本は210の藩、つまり地方地方の小政府にわかれていて、

百姓の租税はそれらの藩がとってしまうものですから、

中央政府である幕府は、たいした収入をもっているわけではないんです。

そのすくない収入で、幕府は日本、むろん大名領もふくめて、

全体を防衛する陸軍や海軍をつくらねばならず、また志士と称する者が外国人を殺傷する、

そういうテロ事件がおこるたびに幕府は賠償金を当該国に払わねばなりません。

こんな気の毒な政府があるでしょうか。

幕府は、諸藩から一文の税金もとっていないのに、日本政府としての義務だけがある。

ここに国が千あれば千通りの政体の歴史があります。

そっくりという国は地上にはありません。

歴史は科学のように法則的に変化するというマルクス歴史観のあやまりは、ここにあります。

明治、大正、昭和の国民は、

世界じゅうの貧乏神をこの日本列島によびあつめて共にくらしているほどに貧乏をしましたが、

外国から借りた金はすべて返しました。

「国家の信用」というのが大事だったのです。

19世紀の半ばすぎという時代において、古ぼけた文明の中から出て近代国家を造ろうとしたのは、

日本だけだったのです。

そのことの嶮しさをのべたかったのです。

いったん返すべきものを返さなければ植民地にされてしまうのです。

でなくても、国家の信用というものがなくなります。

国家というのも商売ですから、信用をなくしてしまえば、取引ができなくなるのです。

信用がいかに大事かということは、江戸期の人達も、その充実した国内の商品経済社会での経験で、

百も知っていたのです。

戦国の武士は出陣のとき、すべて自分の経費でもって馬をととのえたり、家来をやとったり、

食費をまかなったのです。

"敵を見て死をおそれるな""弱者いじめをするな"といったたぐいの教えは骨髄にしみこむほどのものでした。いわゆる薩摩隼人とよばれるいかにも武士らしいこの藩の風は、自然に存したものではなく、

くりかえしますが、300年間の教育によるものでした。

長州藩では、他藩にない微妙な意識があります。

士農工商をふくめて、長州藩は1つだという一藩平等、平等といってはいいすぎながら、

そうとしか言いようのない意識があったのです。

"自分はいまは百姓ながら300年前は毛利家のしかるべき武士だった"という意識。

それが、幕末、この藩が幕府の第二次長州征伐の前後、

幕藩体制下における奇跡の無階級軍隊をつくる結果になりました。

いまでいえば佐賀県は日本の都道府県のなかでも面積も小さく、貧乏でもある県ですが、

封建割拠、つまり自治というもののおもしろさは、意外な花をひらかせるものですね。

佐賀は、科学技術という点で、かがやくような藩でした。

薩摩の藩風(藩文化といってもよろしい)は、

物事の本質をおさえておおづかみに事をおこなう政治家や総司令官タイプを多く出しました。

長州は、権力の操作がが上手なのです。

ですから官僚機構をつくり、動かしました。

土佐は、官にながくはおらず、野にくだって自由民権運動をひろげました。

佐賀は、その中にあって、着実に物事をやっていく人材を新政府に提供します。

この多様さは、明治初期国家が、江戸日本からひきついだ最大の財産だったといえるでしょう。

薩人というのは、ふしぎな文化をもっていました。

「貴方(おはん)、たのむ」という文化です。

上に立った場合、みずから考えて走りまわるよりも、有能な下僚を見つけてきて、おはんたのむ、

ということなのです。

明治維新成立後、西郷はなにやら虚無的になっていました。

時代が旋回し、ほとんど歴史物理といったような力が働いて明治維新が成立したとき、

いざ出来上がってみて、かれはさびしかったようです。

かれがもつ、ほとんど体系化しがたいほどに大きい、

しかし多分に固体化されていないその理想からいえば、輝きのすくない国家でした。

それにかれには超人的な無私の心がありました。

西郷は、本気で、自分より身分の下の人ほうが賢いと思っていた人です。

革命とは本来、常にあらざる、非常の事態です。

一民族の長いいわば千年の歴史で、革命を一度やると、

"あれはすばらしかったが、しかし二度とはごめんだ"というものです。

そういう革命によって、その期間、人間は狂気にならざるをえません。

そのためには強い酒、つまり異常なる正義、が必要です。

ともかくも、日本の幕末における「攘夷」

こういう強烈な酒でもってやらねば、国が細胞まで新品にうまれかわる、

というようなことができなかったのです。

勝とうが負けようが、国土を血ぬらして戦う。勝敗はべつ。

いわば宗教的なもので、というより宗教そのものでした。

薩長という明治維新勢力は、革命政権についてなんのプランももっていなかったということです。

大名や士族にとって、廃藩置県ほどこけにされたことはありません。

明治維新は、士族による革命でした。多くの志士が死にました。

この歴史劇を進行するために支払われた莫大な経費、軍事費や、政略のための費用、はすべて

諸大名が自腹を切ってのことでした。

そのお返しが、領地とりあげ、武士はすべて失業、という廃藩置県になったのです。

なんのための明治維新だったのか、かれらは思ったでしょう。

勝利者も敗者も、ともに荒海にとびこむように失業する、というのが、

この明治4年の廃藩置県という革命でした。

士族の師弟はみずから救済する道として、学校を選んだということに注目したいと思います

"勉強すれば食えると"というふしぎな信仰が、かれらの活力源でした。

廃藩置県のような無理が通ったのは、幕末以来、日本人が共有していた危機意識のおかげでした。

幕末以来、日本が侵略される、とか、植民地にされる、亡ぼされる、という共通の認識と恐怖が

いかに深刻だったか、またその即物的反発としての攘夷感情、その副産物としての日本国意識

(日本国全体を運命共同体としてみる意識)がいかにつよかったのか、

そういう一国を覆いつくしている共通の感情を考えねば廃藩置県は理解できません。

だから無数の被害者たち、それも武力を持った被害者たちが、頭を垂れて黙々とこれに従ったのです。

それを思うと、当時の日本人たちに、私は尊敬とともに傷ましささえ感じるのです。

薩摩の領内だけは、江戸時代がつづいていました。滑稽なことでした。

革命をおこした藩が、勝利者の権威によって、革命は無縁に存在しつづけたのです。

一枚のマンガでした。

廃藩置県は、薩摩藩をふくめほぼ無血におわりました。

久光は大いに憤り、ふたたび、西郷を"叛臣だ"と、ののしりました。

かれが、桜島を目の前にした海岸の別邸で、海岸に石炭船をつながせ、そこで花火をうちあげさせて、

終夜それを見つづけたというのは、廃藩置県の報がつたわった夜でした。

世界と平均した法体系や慣習体系をもつ。それが、文明開化というものです。

いやもう明治年間いっぱい、明治国家は、不平等条約をあらためる、条約改正、のために

大変な努力をしました。血みどろというべきものでした。三十年かかりました。

明治三十二年、ようやく治外法権は撤廃されます。

イエズス会というのは宗教に熱心なあまり、無神経なところがありました。

この時代のイエズス会は、宣教師はみなヨーロッパにいる神父とは別人のようにまじめで戦闘的で、

命を惜しまずに活動しました。それだけに、あきらかにやりすぎました。

徳川幕府は、ついに寛永十年「鎖国令」を出します。

これはキリシタン禁制と表裏をなしており、江戸幕府最大の国禁でした。

くりかえして申しますが、キリシタンとはカトリックのことで、プロテスタントはこのかぎりではありません。

明治国家は普遍性へのあこがれがつよかったことはたしかですが、

キリスト教に関してだけは、ぴしゃりと窓をしめておりました。

もともと江戸日本が、どこかプロテスタンティズムに似ていたのです。

ただし決定的に似ていないところがあります。

ゴッドとバイブルをもっていない点です。

明治初年の知識青年をとらえたプロテスタンティズムとは、要するに、主をうしなった武士たちが、

あたらしい主である神を得た、ということでもありましょう。

戦争の後半でバルチック艦隊がやってくる。

これに負ければ日本はロシアの植民地に、これははっきりなったでしょう。

統率者としての東郷さん自身、自分の役目は、戦橋に立ちつくして死ぬことだと思っていたでしょう。

戦艦で旗のように立つ東郷と頭脳の秋山、部署々々で働くひとびとといった役割分担がうまく行ってる。

日本人が持っている組織の力学といったようなものの一つの典型をなしたような感じがします。

もっとも、このマネを太平洋戦争でもやって、型は破綻しました。

基礎設計者の山本権兵衛を得ず、東郷を得ず、秋山を得ずして型だけをマネしても仕方がないことです。

自分の過去に対して沈黙する必要はない。

ようやった過去というものは、密かにいい曲を夜中に楽しむように楽しめばいいんで、

日本海海戦をよくやったといって褒めたからといって軍国主義者だというのは

非常に小児病的なことです。

私はかれらは本当によくやったと思うのです。

かれらがそのようにやらなかったら私の名前はナントカスキーになっているでしょう。

この学校を十九世紀にひきもどしても、とても海軍士官を養成する内容ではなさそうですね。

そういう学校に、極東の無名の青年(東郷)が、年を十歳もごまかして入学し、すてばちにならず、

規律で最高点をとっていたことを思うと、胸の痛むような思いがしました。

勝海舟は、日本史上、異様な存在でした。

異様とは、みずからを架空の存在にしたことです。架空の存在とは、みずからを、"国民"

にしてしまったことです。

"国民"がたれひとり日本に存在しない時代においてです。

家康が徳川(江戸)封建政権(1603)を確立したばかりのときであって、以降200数十年かけて

非常に精密な封建国家をつくっていきます。

これはこれで、わるくはないものでした。

200数十藩に分れて、その藩ごとに自治があって、そして藩ごとに文化あるいは学問のそれぞれの

ちがいがあって、互いに競い合い、

かつ商品経済をになう町人や農民が力を得てきて合理主義思想を展開し、

それらが互いにからみあって、

いわゆる江戸文化を高めたという点では、われわれの重要な財産だと思っています。

しかし、幕末いざ国際化するとなりますと、大変でした。

ひとびとがみな立場がちがい、身分差があり、等質性というものはまったくなかったのです。

勝はすかさず「アメリカは日本とちがって、賢い人が上にいます」

老中はみなにがい顔をしたといいます。

形而上学というのは、理屈学です。

時代的状況が去れば、ヘリクツになってしまいます。

ヘリクツが、東アジアをながく支配してきたのです。

いわゆる「アジア的停滞」のしんには、朱子学があると思います。

関が原で敗れた側のサムライの多くは、農民身分になりました。

勝った側のサムライが、江戸時代の幕藩体制をつくるのです。

ありあまるサムライたちの多くが読書階級をなし、また武士的節度を重んずるという規律を保ち、

いわば江戸期日本の精神文化をささえたともいえます。

農民にとって大変高くついた制度でした。

しかし日本史ぜんたいという場所からみれば、帳尻は合っていたでしょう。

過去は理想化されるように、武士道もまた理想化されて明示の精神になったと思います。

ナマの武士というのは、つまらない人間も多くて、社会の穀潰しといった人もおおぜいいたはずです。

それら、歴史上数千万の玉石を気体にしたのが、武士道というものでしょう。

島津久光は渾身保守の人で、幕藩体制を是認し、サムライ制度が永遠につづくことをねがい、

さらには、学問は漢学を重んじ、風俗は古来のものを守るという人だったのです。

こんな人が、革命の急先鋒の薩摩藩の藩父だったんですから、歴史は皮肉ですね。

かれは、いわば楼上で茶を喫しているあいだに、

薩摩軍が京都郊外で戦い、関東や北陸で戦い、北海道まで行って戦っていたのです。

そして世が変わってしまったのです。

久光にすれば、私どもが明治維新の日本の柱と思っているこの二人(西郷、大久保)は、

不忠者であり、謀反人でありました。

明治初年から十年までのあいだのことを調べていますと、この十年で、

その後の日本国家の基礎がほぼできあがっていたように思います。

わずか十年で、よくやったと思います。

が、それは、たとえば議会という民主主義手続きによっておこなったのではなく官員が思いつき、

少数の仲間できめて、どんどん実行したから速かったにすぎません。

攘夷を叫び、攘夷の実行を幕府にせまることによって日本じゅうの素朴世論をかきたて、

自分たちに世論をひきよせておいてから、幕府をたおす。

そのあとは、開国する。

開国どころか、ヨーロッパなみの国にする、というものでした。

たちが悪いといえばそのとおりです。

もともと革命というのは、けっさかんぼう、だましとからくりと陰謀にみちたもので、

決してきれいなものではありません。

幕末の福沢でさえ、だまされていた。

明治政府は、久光の意に反したとはいえ、島津氏の財と兵力のおかげでできたのです。

福沢が、西郷の死においていいたかったのは、さきにのべた抵抗論よりも、

また右のような事情論よりも、じつはサムライたちがついに滅亡してしまったということについての

さびしさについてだったでしょう。

西郷の死と、西郷の後輩たちの大量の死は、サムライたちが保持していた日本人の品性や気骨、

質実さが、今後、急速に薄れてゆくという不安を福沢にいだかせたのでしょう。

"個人の独立"といったところで、薄っぺらな個人が独立したところで、

なにほどの美をなすわけではありません。

西郷が東京にいたたまれなくなったのは、じつは政論、政見の相違といったものよりも、

馬車に乗り、ぜいたくな洋風生活をとり入れて民の苦しみ(百姓一揆が多発していました)を

傲然と見おろしているかのような官員たちの栄華をこれ以上見ることに耐えられなくなったからでした。

西郷は、真正の武士でした。

しかも、その”東京政府”は、西郷がつくったのです。

西郷はこれらの現状を見て、

"倒幕のいくさはつづまるところ無益だった"とこぼしたり、

「かえって徳川家に対して申しわけなかった」といって、つねに恥じ入る心をあらわしていた、

という話を福沢はきいています。

西郷には、かれ自身が一身で解決できないほどの矛盾がありました。

かれは、武士がすきだったのです。

とくに薩摩武士が好きだったのです。

人間として信頼できるのはこの層だと思っていました。

この層を制度として生かせば、"国民"はできあがらない。

かといって、かれにとって宝石以上のものである武士を廃滅させるわけにはいかない。

西南戦争の真の原因はそこにあります。

薩摩を中心とする日本最強の士族たちが死ぬことによって、十二世紀以来、

700年のサムライというものは滅んだのです。

西南戦争を調べてゆくと、じつに感じのいい、もぎたての果実のように新鮮な人間たちに、

たくさん出くわします。

いずれも、いまはあまり見当たらない日本人たちです。

かれらこそ、江戸時代がのこした最大の遺産だったのです。

そして、その精神の名残が、明治という国家を支えたのです。

国民が政治参加するためには"国会"という場が必要です。

むろんそれを保障する"憲法"がなければなりません。

"国会"と"憲法"それがおおかたの自由民権運動の運動目標でありました。

民にとって政治は意識にものぼらないというのが理想の政治だ、という古代思想です。

この古代思想からみれば、民は"阿Q"でいいんです。

憲法国家つまり立憲国家というものは、国家が、自然的状態から法人になったということです。

日本の場合、元首は、天皇でした。

天皇といえども、憲法によって規定された存在であるということが法の偉大さです。

ただし、天皇という神聖空間は、哲学的な空ですから、ここに大きな"抜け穴"がありました。

まことに、この点、明治憲法は、あぶなさをもった憲法でした。

それでも、明治時代いっぱいは、すこしも危なげなかったのは、

まだ明治国家をつくったひとびとが生きていて、

亀裂しそうなこの箇所を肉体と精神でふさいでいたからです。

昭和前期、ついには憲法の"不備"によって国がほろびるとは思いもしていなかったでしょう。

江戸末期の革命的思想のなかに"一君万民"という平等思想がありました。

天皇を戴くことによって、将軍、大名を否定し、三千万の人間が平等になるという思想でした。

それが幕末にひきつがれて明治維新の爆発力の一つになり、廃藩置県をも可能にしました。

"臣民(国民)"とはその帰結としてのことばです。

人種論ほど滑稽で有害なものはなく、なんの科学的根拠ももっていない。

人種もそうだが、民族というのも、人間にとってときに荷厄介なものである。

民族とは文化と歴史を共有する意識とその集団をさすものの、それを過度に、

あるいは神秘的にj感ずることによって、かえって他者への憎悪をかきたて、自民族を傷つけてきた。

「人間というのは、いつも他者を誤解したくてうずうずしているのです。

せっかくの真意が誤解されるでしょう」と、私はいった。

この主題は、明治時代というむかしばなしではない。

明治国家という、人類文明のなかでにわかにできた国の物語として語ったつもりである。

さらにいえば、いまの日本国がその系譜上の末裔に属するかもしれないが、あるいは、

そうでもなく、人類の一遺産であるかのようにも思っている。