悠久の片隅

日々の記録

昭和という魔法の森

「昭和」という国家/司馬 遼太郎

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『明治という国家』も読んだのですが、全然違う・・・

昭和(ここでいう昭和とは昭和初期から敗戦まで)では、司馬遼太郎が言い淀む箇所がいくつも出てくる。

誤って解釈されることが無いよう、何度も確認しながら、補足を加えながら、

それでもうまく伝えられないもどかしさに身悶えを感じている様子が伺える。

本当は自分は小説家なのだから小説に書けばよいのだけど、小説では包みきれないとも。

事実、あれだけ歴史小説を書いていても、昭和は書いていない。

丹念に調べ、身の内だけでは抱えきれないほどの思いがあったと思います。

でもいっさいを吐き出すことなく、それは小説家であるが故、ことさら苦しいことと想像します。

坂の上の雲』に関しても映像にされたくないと、はっきり告げている。

それをご本人が亡くなられたのち、ご遺族が許可をしてドラマ化されたようで。

本人がダメというもののを、ご遺族がOKをした気持ちも理解したいと思います。

苦心に苦心を重ね産み落とした結晶をそばで見て知っているだけに、

世の方々にもっと知って欲しい気持ちは、誰よりも強かったのではないでしょうか。

NHKも配慮に配慮を重ねたようですが、ドラマはどうだったのでしょうね。

私は見ていないのでなんともわからないのですが。

いくら配慮してもしきれないほどの問題、その時代がいまだに何も解決が出来ていないからに思います。

私がこの本で司馬遼太郎の意をどこまで汲めるかはわからないけど、いっぱい考えることが出来たことに感謝です。

司馬遼太郎

いったいこの戦争はなんだったのだろうか。

なんでこんな無謀な戦争をする国になってしまったんだろうか。

そのことを戦後何十年も考え続けてきた。

明治憲法もかなりの危うさをはらんでいた。

でも憲法に不備があっても、明治初期の人たちが素晴らしく、

彼らの肉体と精神をもってつかさどっていた。

でも昭和初期になると、法の上での抜け穴、天皇という存在を軍部が利用し、

統帥権を行使し、国を牛耳ってしまった。

この本は昭和初期の魔の空間を考える本ではあるけれど、大半は江戸明治の話。

日本が無謀な戦争を始める要因は、明治江戸と歴史を遡る必要がある。

今、憲法改正の是非が問われている。

でも、こうして過去を振り返り考えると、

憲法は人が作ったもの。人の作ったものに完全は無い。

完璧な法が在ると考える方がリアリティーに欠ける。

明治の新政府は己の肉体と精神をもって、

『自分たちが作った国』を大事にし、いつでも命を投げ出す覚悟があった。

先に逝った者の死を無駄にしてはいけない。その思いで国のため、次々身を投じていく。

愛国心で新しい国づくりをしていた活気ある時代だった。

明治5年、ペルーの船が入港した。200人以上の中国人奴隷を乗せていた。

日本は、文明国の名において、

臨時法廷を開き、奴隷解放の裁きをくだした。

日本に第三国を裁く権利、資格があるか、各国の外交団の間で問題になった。

そして逆に「奴隷売買で船長が裁かれるのなら、日本の娼妓の売買はどうなんだ」

と反論を受けた。

政府、司法は直ちにこれを改め、即刻娼妓売買禁止令を出した。

こうして改めるべきは改め、国際社会の仲間入りをしていった。

この俊敏さが明治初期の新政府で、薩長独裁政治だから瞬時の行動が出来た。

憲法に不備は必ずある。あった時には身を挺して改める。

それが正しいか、正しくないかは、もう法の話ではない。基準も無い。

最後は人として。そして命をかけて。ということなのだと思う。

今、憲法に関していろいろ取沙汰されているけど、

改憲しようとしまいと、最後は上に立つ者の人間性。

その後、政権は2期となり、人物はだいぶ劣るがそれでもなんとか保てていた。

大正になり受験戦争が始まり、昭和になると試験に合格した優秀なひとたちの時代となった。

幼い頃から士官学校でエリートになるべき教育を受け、既得権を得てしまった彼らには、

リアリティーが欠けていた。

日露戦争の頃のままの武器で世界を相手に戦争を始めるなど、どのような戦術があったかといえば、何もない。

他の国は連射式の銃、日本は一発しか撃てない銃。

「よその国はバラバラと撃てるが、これでは心が入らない。

わが国のほうが心で念じ、一発必中になって狙えるからいい。」

これが上官のことば。

ことばというのは、まやかしなのだ。

「どうしてあんなバカな司令官、参謀の軍隊が大崩壊しなかったか。」については

イギリス人がこう答えを出している「兵隊や下士官が信じがたいほど強かったから」

食料も現地調達。

日本は、日本国民の精神力のみを戦術としていたのだ。

国民の精神力のみを武器に世界相手に戦争始めてしまう国などない。

『極端でイデオロギッシュな概念から出てきた言葉は空疎なものです。』

これは今の政治家、評論家、マスコミにも気をつけて欲しいところですし、

受け取る私も、一見なるほど。と思うことも、冷静になって判断していかないといけない部分に思います。

『軍部はあくまで国の用心棒であって、

用心棒が自分たちの思想で国を動かしてしまったらとんでもないことになる』

明治維新尊王攘夷を掲げ、徳川幕府を倒し、自分たちの政府を作ろうとした。

その時代優秀な人たちが全国にいた。

士農工商という制度の中で、お百姓さんは食うにもやっとの苦しい生活を強いられたかもしれない、

商人は武士をずいぶん賄った。

そのお陰で、武士は精神肉体、共に磨く余裕があった。

もちろん優れた人は武士の中でもほんの一握りではあったと思う。

でもその一握りの人たちが自分の命も厭わず、すべてを投げ出し、藩のため、国のため、に生きた。

そして奢りある徳川幕府を倒し、尊王攘夷をスローガンに新政府を樹立した。

でも、新しい政府は薩長の藩閥政治で、西欧から次々と近代を取り入れた。

そして明治維新の一番の立役者である西郷隆盛が野党となってしまうという、

これは誰も予想だにしなかったに違いない。今風に言えば、討幕派の公約違反も甚だしい。

でも独断即決の政府だから、日本をどんどん変えることが出来た。

そんな独断の有司専制に合ったのが、ドイツ式陸軍だったのも不幸の始まりともいえる。

ドイツ参謀本部は優秀な人材を集めた、政府から独立した機関であった。

日本の参謀本部がドイツ式でなければ、統帥権などというものも生まれてこなかったかもしれない。

薩長独裁政治でなければ、ドイツ式を取り入れなかったかもしれない。

不幸の種はいつどこに落ちているかわからない・・・

それにしても、初代連合艦隊伊東祐亨を思うと、

いつ日本人はこんなことになってしまったんだろうと、やはりわからない。

伊東祐亨は日清戦争の激戦のさなか、砲弾を受け瀕死の部下たちの元にすぐ駆けつけ、

声をかける。

部下は「長官さえご無事なら良かった。」の言葉と共に息絶える。

こういった上下の信頼関係が日本国であり、武士の魂そのものであった。

伊東祐亨は、敵の敗戦の将に対しても礼節を逸することなく、国は違えど同じ海軍の将として心からの敬意を表した。

それが世界で日本人への評価、信用となっていく。

明治になっても、こうした武士の魂の人たちがいて、国を案じていた。

この時代の人たちは皆味がある。

偏差値で測ることの出来ない各藩の多様性が生かされている。

伊東祐亨も西郷も薩摩だ。

勝海舟は、礼を欠くことなく接してくれた西郷を愛してやまない。

薩摩藩というのは多分そういう藩なのだ。

綴っているうちに、話があちこちに飛び、わけがわからなくなった。

今日はこの辺にして、また明日・・・