悠久の片隅

日々の記録

ヒューマンエラー

観念論とリアリズム。

グレイズアナトミー観ながらずっとそこを考えている。

「確かに私は手術でミスをした。でも人間とはミスを犯すもの。」

すごいな。

ミスをすることを認めないことは人間の奢りである。

だからどんな凶悪犯であっても、必ず弁護士はつくのでしょうけど。

この前TVで、韓国アシアナ航空の飛行機事故を検証していて、

着陸をやり直すことは出来たのに、機長も教官もそれを口に出さず、

無理な体勢のまま着陸に入って大参事を引き起こした。

やり直すか、やり直さないかの判断の決定権は機長にある。これがルール。

ルールにのっとって、教官は機長に任せていた。

機長は、長年の慣習として、年上の教官に対して意見を言う立場ではないので、

着陸のやり直しを言い出せなかった。お互い危険を感じながらも、事故は起こってしまった。

目上の者を立てる。これが韓国の儒教

社会は常に観念論とリアリズムの間で、戸惑っている。

どれだけハイテクが進んでも、ヒューマンエラーは起こる。

ヒューマンエラーを失くすには飛行機を失くすほかない。

自動車事故を失くすには車を失くすしかない。

でも、現代社会でそんなことをしたら自分自身が不自由で不便になってしまう。

だからヒューマンエラーは必ず起こるという前提に目をつぶり、身を任せている。

安全神話

神話は観念論でリアルとはまったく別の世界である。

ミスは許されなくても、

それとは別の次元で人間はミスを犯すという現実は変わらない。

『ありのままに物を見れば、必ず具合の悪いことも起きる。だから観念の方が先にいく。』

リアリズムは怖い。リアリズムが恐いから観念があるのですね。

原発は事故が起きるというリアリズムはあまりに恐ろしいから、大丈夫という観念で打ち消す。

リアリズムのみで考えていくと、怖ろしい。

人間は生まれ、そして死ぬ。

誰の人生もこの一行で終わってしまう。

孔子のころの儒教はまだ温和でしたが、朱子学は戦闘的です。

朱子学はシャープな論理、鮮やかな修辞を持ちます。

自分が正当であり、相手が悪であることを繰り返し議論します。

刃の鋭さを持つ朱子学は、もともとの中国では成熟せずに、朝鮮において花を開きました。

ところが、この儒教が古い衣であります。

早く脱ごうとすれば民族的な、あるいは家族的な結合が弱まり、倫理観がいっぺんになくなり、

これでは社会がもたなくなります。

しかし着っぱなしでは近代化は出来ません。

儒教は家族倫理のようなところがあり、神秘的な厳格さで、子は父を、叔父を、村の年寄りを尊びます。「孝」ですね』

目上の者を尊ぶ=意見することが出来ない=停滞

これが韓国アシアナ航空機の事故原因。

現実になって、初めて行き過ぎた観念の恐ろしさに気づく。

人間に関係なく、世の中の方がどんどん動いていってしまう。

その中に入っていると、自分がどのような民族か相対で見ることが出来なくなる。

自分たちがいかなる人間が、リアリティーが本当に見えているかどうか、時々立ち止まって考えてみる必要がある。