悠久の片隅

日々の記録

武神

韓国大河ドラマ『武神』を見始めた。

韓国のドラマは初めて見る。

韓国が今までどんな歴史を背負ってきたかまったく知らない。

中国には興味があったけど、韓国に関してはまったくで。

歴史物語 朝鮮半島 (朝日選書)/姜 在彦

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去年かな、この本を買ってはみたけどまだ読んでいない。

「歴史の交差路にて」(日本・中国・朝鮮)という司馬遼太郎陳舜臣金達寿3氏の対談を

読もうとしたら、まったくわからなくて、

それは私の中で朝鮮がスッポリ抜けているからで、それで朝鮮の本を買ってみたけど、

まだ読んでいない^^;

このドラマの時代は13世紀の高句麗

今は北朝鮮と韓国に分かれてしまっているけど、

この国の、時代や政権を超えての呼び名は、朝鮮でよいのかな。

初めてみた印象として、

朝鮮は、中国とは違うんだな^^;ということ。

このドラマがどれほど史実に忠実かはわからないけど、

撃毬(キョック)は、古代ローマグラディエーターペルシャのポロ、

それからモンゴルの馬に乗って(確か羊と思ったけど)を奪い合う遊びのような、

そういう類に似ていますね。

朝鮮は、私の感覚だと中国の端っこの半島にちょこらんとあって、

ほとんど中国的イメージですけど、

ものすごく大陸的なのですね。中国というより驚くほど大陸的。

私、ものすごい思い違いをしていました。

自らの文化を因襲しているだけでなく、小さな半島に大きな大陸を取り込んでいる。そんな印象。

物語は、奴婢の身分から、撃毬(キョック)という殺し合いの競技で勝ち残り、見いだされ、

武臣政権の最高権力者の地位にまで上り詰めた実在の人物、金俊(キム・ジュン)を

元に描いている。

最初、奴婢をムチで叩く場面がひたすら出てくる。人間家畜、あまりにひどい。

日本にも奴婢はあった。多分中国文化を手本にしているところから入ったのだろうけど、

日本はムチの文化は無い。

ムチは遊牧民文化で日本には奴婢をムチで使う文化はない。多分。

たとえ人間以下の身分でも相手が人間との意識はある。

日本は様々を輸入して猿真似の国ではあるけど、

輸入した文化にワンクッション入るのは、海という人工物でない壁があるせいだろうか。

奴婢はあくまで家畜。そういう本質が日本に入ってきたら違ってしまった。

キムジュンが「奴婢でも男として生きたい」という場面は、

スパルタカスの「獣としてより、人間として生きたい」のセリフを思い出す。

彼らは人間として扱われることが無い、悲しい歴史です。

そてにしても朝鮮は大変だったのですね。

考えてみれば当たり前のこと。

中華思想の中国や覇者モンゴルの圧力に耐えながら、よく国を残せたと。

もし日本人なら、あの環境で国を残すことなど出来なかったんじゃないかな。

ものすごく興味出ちゃいました。朝鮮という国にです。

今の韓国にまったく興味をもてないのですけど、朝鮮を好きになれば自然と興味も沸いてくるのかもしれない。

理解しようと特別には思っていないけど、『好きになる』

理屈でなく沸いてくる感情により、理屈を変えることが出来るのだと思う。

好きでいれば、それだけでいいように思います。

逆に『大切にしよう、理解しよう』という意志はあまりよろしくないような。

男女や親子の間もそうでしょう。

『好き』だけで充分。他に何を求めてもかえって虚しくなる。

それにしても、モンゴル。

大草原を駆け巡るチンギスカン。世界でもっとも子孫を残したとされる。

それは支配した土地、土地で女子に次々子どもを生ませたためでしょう。

女性を繁殖として利用、つまり感覚は家畜。

朝鮮という小さな国がそういった巨大モンゴル、巨大中国にどう取り込まれ、どう対峙し、

自分たちの国を守ってきたのか知りたい。

日本のように、「鎖国しよう♪」なんて、したくて出来るようなのんきな国は世界探しても無い。

どこも他民族と地続きだから、相手が侵入してきてしまえば、戦わざる負えない。

どんな屈辱にも耐え、屈服せざる負えない時もある。

どこの国もそんな過去を抱えている。そんな中で国を存続させてきた。

殺さなければ殺される。

何世紀前まで、それが世界の常識だったのでしょう。

ドラマは1話はよく意味が分からず、それはすべての状況が慣れていないのと、

名前がチェとかチュとかチョンとか同じようで憶えられないし、衣装も顔も似て、

誰が何やら、見分けがつかないのもあったけど、慣れてきたらもう面白くて、面白くて、

56話を一気にみてしまいそうです。

武神公式ホームページ