悠久の片隅

日々の記録

<a href="http://ameblo.jp/fujiko-diary/entry-11283602493.html">畏れ</a>

私の道徳は、旧約聖書

それはイエスがどーたらの話しではない。神は関係無い。

多分、中学か、高校。高校かな、の時読んだ三浦綾子の『塩狩峠

あれで、私の考え方は変わった。

本屋さんにある三浦綾子の小説を片っ端から買って読んだ。

エッセイは、その頃の私には説教臭さが無理で読まなかった。

エッセイも読むようになったのは大人になってから。物事には段階がある。

それ以来、多少の変化はあっても、基本はそこに根付いたままになってる。

塩狩峠に『ふじ子』という人物が出てくる。

私のHNの由来がそこからとは畏れ多くて言えないけど、

その名前は私にとって忘れられないもの。

若い頃に読んだものの影響は強烈で、自分を根底から覆す威力がある。

この本に出会えて感謝です。

今は、旧約聖書入門この中のヨセフの物語

これに尽きます。これだけでいい。

旧約聖書入門―光と愛を求めて (光文社文庫)/三浦 綾子

¥540
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是非、この三浦綾子の解釈で読んでいただきたいと思います。

10頁ほどの短い物語にあんなこと、こんなこと詰まってます。

これを読むと、

私がもし無実の罪で牢屋に入れられたとしても、そしてそれで一生が終わったとしても、

私はそのことが悲しいとしても、胸を張って毎日を過ごせる、そんな気がしちゃいます。

たった10頁の物語を読んでそう思えるとしたら、それって奇跡じゃないですか?

実際そうなった時にどうかはわからないけど、

私が自分の人生をそんなふうに思えてしまうのは、やはりありがたく思います。

聖書の中の奇跡は幾つかありますが、

非科学的なことでなく、そういった人の心の中の奇跡かもしれない。

『正しいことをしたという、そのこと以上に得なことは無い』

私は塩狩峠に育ててもらった。

親も学校も教えてくれなかった心の在り方を知った。

そして物事の損得感情が変わった。そのことに心から感謝です。

この旧約聖書入門にも書いてありますが、

バビルの塔。「創世記」11章

かつて人間は天に届くほどの高い塔を造ってしまった。

そのことを神が怒り、塔をバラバラにし、

それまでは統一されていた言語をバラバラにしてしまい、

言語に相違が出て、世界の人の気持ちがバラバラになってしまったという

今から2000年も前の旧約聖書の中の話です。

建築途中にミスがあって、塔も人間の心もバラバラになってしまったことを

神の怒りとしたこじつけなのかもしれませんが、人間の分を超えた行動が招いた悲劇です。

三浦綾子は、

「高層建築を見るとバビルの塔を思い出す。

ニューヨークの摩天楼を見たら、わたしはどんな思いになることだろう。」

と、何十年も前にこの本に書いてます。

神に対する畏れです。

アメリカのテロのことを見たらなんと思ったでしょうね。

でも、こうして現に書いていた。

人間は、太陽を浴び、黒い土を踏んで命を繋いできた。

それがいつの間にか自然に反する生き方をしはじめた。

人は一段、モノを高く積み、知恵をつけるたびに、賢くなってきたように思ってるけど、

そこに傲慢が生まれ、実は愚かになっていることには気付いていない。

人間は畏れを知らなくなってしまってます。

それは家で父親が怒らなくなったのも一因で、

子供の頃、父親とは、子供にはよくわからない絶対的な理屈で怒るのです。だから畏れるのです。

学校の先生に対しても畏れがあった。

自分が敵わない何か(畏れ)をもつことは、息苦しさと共にどうしても必要なのです。

その絶対敵わない相手が、西洋宗教だと神となり、東洋宗教だと仏教の自然崇拝となる。

遠藤周作は言ってます。

富士山に東からでも西からでも登り口があるように

西洋宗教でも東洋宗教でもなんにしても、目指すところは同じではないかと。

私もそう思う。人が目指す場所は一つです。

だから私は旧約聖書を読んで禅の心で考えてます。それでも特に違和感はないです。

本当にそこまで高い建物が、人間にどうしても必要なのですか。

貧しい人たちは、その立派過ぎるほどの建物をありがたく感じて眺めてますか。

太陽は恵みなのです。その陰りとなった場所に花は咲きますか。

超高層ビルは人間の奢りなのかもしれないと、考えてみることも必要ではないですか。

身の丈に余るほどの持ち物は、人の妬みを誘います。不幸を招く種になります。

9.11を見て、それでもなお、もっと高く、もっと高く、と考える人間を私は愚かだと思います。

高層ビルだけの話しだけではありません。ほどほどを知る。己の分を知る。

昔の書物を疎かにしてはいけません。

大切な事はみんなそこに書いてある。大切なことだから書いてある。

私は宗教の話として言っているのではないです。

ただ単純に、崇高なるものに畏敬の念をもつ。畏れをもつから慎み深くなる。己の身をわきまえる。

簡単な原理です。

今は皆が賢くなって、畏れを抱くほどの崇高なものが世の中からなくなってしまいました。

人間が一番崇高なものだと勘違いするようになりました。

人は本を読んでも一時間すれば、50%は忘れる。

一週間で70%忘れる。

大事なことでも残念ながら忘れるように出来てます。

祈りとは、

毎日祈りなさいというのは、

その大事なことを忘れないようにするためではないでしょうか。

煩雑になった日々の暮らしのその喧騒の中では、本当に大切なことを見失いがちになる。

忘れないためには、忘れる前に復習するしかない。

祈りの意味は、心静かに毎日を復習することだと思います。

別に祈りそのものに意味があるわけではなく、生きていくための確認です。

でも

それさえ出来ないのが人間です。

だから謙虚に生きていかないといけないです。

何も出来ないから謙虚に。

私はこうして、自分が出来ないことを棚に上げて偉そうに書きました。

これが私の奢りです。マスコミと一緒です。

私の今日の反省です。

それほど慕うキリスト教に私が何故それ以上入っていかないかは、

旧約聖書の神はこのように厳しくて、私には無理です。とてもとても、ついていけません。

金太郎飴のようにどこを切っても常にクリスチャンでなければならない、

その縛りは私には無理すぎます。

なので時々この聖書入門を読んで、自分の中の空気の入れ替えをします。