悠久の片隅

日々の記録

文化人類学入門

当たり前とはなんなんだろうか。

文化人類学入門 (中公新書 (560))

文化人類学入門 (中公新書 (560))

人は、どうして服を着るようになったか。


寒いから?

いや、

夏の暑い時でも、着ている。

寒さを防ぎ、身体の保全を守る為・・・・・

これは真理ではあるけれど、それがすべてではないことに

寒い地方の民族でも、それほど着ない人たちもいる。

または、毛皮を着ても毛皮の部分を外側にして着ている。

逆に暑い地方の民族でも、汗をかきかき、しっかり着込んでいる人たちもいる。


そうなると、暑さ寒さ以外で考えられるのは、羞恥心。

羞恥心があるから服を着る。

ところが、

これも民族によって、羞恥心が違うらしい。

民族によって隠す部分が違う。

男性は陰部を隠しているが、女性は全裸の民族がいたり、

ヒザを見せることを恥じる民族もある。

日本でも、昭和30年頃から女性は胸部を見せなくなったという。

これは欧米からの文明で、

私の子供の頃は、まだ電車の中でおっぱいをあげる母親たちはいた。

江戸時代には川で胸を露わにしている娘っこもいますものね。

裸が恥ずかしいというのは、人間の本能ではないということになる。


私が興味深く思ったのは、

人は服を着るようになって、その隠した部分に羞恥心を感じるようになったということ。

恥ずかしいから着たのでなく、

着た部分が、出したら恥ずかしい部分となった。


私がフィッツロイアイランドという所に父と行った時、

散歩をしていたら、ヌーディストビーチに出てしまった。

そこでは全裸がOKで、皆全裸。

みんなが全裸でいる所で、自分たちだけ服を着ているのは

服を着ているコチラがものすごく恥ずかしく、

多分、一緒にいたのが父でなければ私も全裸組の仲間に入ったと思う。

が、さすがに、父娘で全裸は、現代の日本人を名乗る私には無理で、

でも隣に父がいなければ、躊躇はしても、

私も全裸になりたい欲求は多分抑えきれなかったように思う。

トップレスは、シドニーでは経験あって、

家の前のビーチは、トップレスとそうで無い人が半々。

毎日その光景をみているうちに、

トップレスなってみたいなー、でも恥ずかしいなー、の交錯した思いが続いていて、

で、勇気を出してトップレスになってみたら、

恥ずかしいけど、普段出せない部分を晒せるのは、気持ちいい方が大きかった。


人は屋外での全裸は、実は好きなのだと思います。

スーパー銭湯に行っても、私は屋外ばかり。

太陽と風を全身に直に浴びると、なんとも言えず晴れ晴れした心地になる。

すべてを曝け出す解放感も、人には大切に思います。

露出狂というのは、理性重視の文明社会において、蔑まされる存在ではあるけれど、

同じ欲求は、誰の心にも潜んでいる。


で、スーパー銭湯では、皆もちろん全裸ですけど、

羞恥心も無いですし、

結局は、

裸は同じなんですよね、誰でも。

多少、出たり、ひっこんだり、大きかったり、小さかったりはあっても、

大勢の裸体の中では、たいした差にはならない。

皆が全裸だと、肉体に色気というものはほとんど表れない。

ただ、

足を洗う仕草とか、

そういう動作の方に却って女性の色気が感じられるように思います。

このしゃがんで足を洗う仕草は、幸田露伴の娘、幸田文の書物で得たもので、

読んでから意識して「足を洗う姿が醜い」ということにならないように心がけてます。


肉体は肉です(笑)

大勢の中で、肉で自分をアピールするのは、相当な肉体美の人以外無理です。

それぞれ違ってはいても、ひときわ自己をアピールするには至らない。

人が洋服を着だしたのは、

1つの自己アピールの表れであった。

というのが、真理としてあるようです。

自分は、他の村人とは違うという自己顕示欲、個性を出す為に衣服をまとった。


自己アピールと、身体防護の2つの要因が合わさって、衣服をまとうようになった。

羞恥心は、逆に衣服をまとった産物である。

自己アピールという特性があるので、

スカートという実は合理的でないものを身にまとっている。

身体防護のためなら、スカートは機能としては動きにくいし、襲われやすい。

でも、元々(セックス)アピールとして服を着だした面があると思えば合点がいく。

「そんなミニスカートで外に出て!」と、親は怒ったとしても、

服の機能が、元々がそういうものなのだ。

極度のミニスカートは、不謹慎だと私も思うが、

少子化には、そうした性のタブー化も係わってると思う。

そこを抜きに少子化を話し合うのが、タブー化の表れなのでしょうけど。

文明は真夏にネクタイをしめるという不合理さえ生み出した。

それは身体でなく、脳が生み出したもの。

余計な出費と、余計な体力で、自尊心を守る人間は、本当に不合理だ。

文化現象とは決してそのように論理的なものではなく、非合理性と矛盾に満ちたものである。

男が正装に際してネクタイをつけるのも、

英語のwrite(書く)という語を記すのに発音もしないwの字を先頭に書いているのと同じことで、

人間の生理的欲求とは直接な関係はなにもなく、

ともに単なる慣習にすぎないのだ。


この本は、私情を極力抑えた教科書のような本で、

がんがん読み進める、というものでもないけど、書いてあることは興味深い。

今まで日本の東西の文化の違いを何故かと考えたこともなかったけど、

東日本にはサハリンの方から広葉樹林

西日本には東アジアの照葉樹が入ってきたことが関与しているなど、

人間の文化が、木と係わってることなど考えたこともなかった。


こうして、

木や人間や動物、文化をじっと見つめ、研究している人がいる。

こういう生産性のない分野を読んでいると、

政治家なんてものは、

『人々の利害関係の調整役でしかない』

と、なんだかとても俗物的に思ってしまう。

今、選挙が大切と呪文のようにマスコミは唱えてるし、実際そうなんだろうけど、

政治って、心が荒む気がしてくる。

中国では賢人は山にこもって仙人になるなんて、言葉もあるけど、

本当に人間のことを深く考えている人は、政治には関ってはいけないようにも思える。

俗世界にまみれ、感性を狂わせるようなことがあってはいけない。

利害でしかものを考えられない世の中は、少し引いた所からみないと疲れるな。