悠久の片隅

日々の記録

意識

選挙に行かない根本的問題を考えずに、

「良い国にするために投票に行きましょう」の言葉だけで人を動かそうとするのは、

社会の手抜きに思う。

社会人としての自覚は20歳になったからといって持てるものではない。

昨日の19歳の自分と今日の20歳の自分は何も変わらないのだから。

子供の頃から自分が社会の一員である意識をもたせることが必要に思う。


学校で、飼育係を決める時、

何故学校で、メダカを飼うのか、

何故飼育係が必要か、

どうやって飼育係を決めるのか、

そこから子供たちに考えてもらう。

水槽のお掃除、エサやりの当番、夏休みに預かる役、など分担を決めたり、統括するのが大臣で飼育係。

理科の好きな子、動物が好きな子、が飼育係の下にいてくれたら心強い。それが官僚で飼育係補佐。

もし飼育係が、自分の嫌いな子ばかり、水槽の掃除をさせたらどうなるか。

飼育係は動物を愛するのと同じくらい、人間に対して心がなければクラスが円満にはいかない。

社会とは、そういうものだと、

学校は、1つ1つ子供自身に考えさせる場、大人になる準備をするところであって欲しい。

どんな大人になって欲しいか、身につけさせるのは子供時代だと思う。

学問だけならネットでも独学でも出来る。

でもそれでは、社会に出て困ってしまう。

子供のうちに社会への責任意識や関心を持たせず、大人になっていきなり「選挙に行きましょう」は難しい。

出来れば17、18歳、学生のうちから選挙権を持たせられたらリアルで体験させられるのに。

世の中を良くする為に投票へ行くわけじゃない。

その証拠に私が投票行っても世の中、良くなんかならない。

そうでなくて、意思表示だと思う。

行かないのは、行かない大人を作ってるという社会の表れで、

そこを考えるという大きな意味を含んでいるのに、

そこはスルーで、国を良くしよう!という欲でしか引きつけられない社会になってる。

マスコミで騒いでることだけが、大事なことじゃない。

騒がれず、スルーされている部分に本当の病巣がある。


メダカでもウサギでもなんでもいいけど、

なんで飼うか、飼ったらどういうことが必要になっていくか、

動物だけじゃなく、何にしても、1つ1つ子供自身の頭で考える。

なんで

なんで

これは哲学です。

日本には、哲学が絶対的に足りてない。

子供が考える前に、親や教師が、全部お膳立てをしてしまう。

なんで学級委員が必要か、なんで投票で決めるのがいいか、相談して決めるのがいいか、

全部子供たちに1度考えてもらった上で、大人がアドバイスをする。

それはあくまでアドバイスで、

失敗してもいいから、子供のいうとおりさせてみるのもいい。

最初から大人が考えたことを子供にさせていたら、受身にしか育たない。

大人が決めたことが必ずしも正しいわけでもない。

意識を持たせた上で選挙に行かないのであれば、それはその人の意思であるからかまわないと思う。


この前、ある音大の演奏会に行った方が、

みんなすごく巧い。

巧いのに、心に響いてくるよう演奏は1つも無く、つまらなかったと。

巧く弾くことばかり、親も教師も子も必死できてしまったんだと思う。

それは大切なことだけど、

最近、歌のCDを聴いて驚いたことがある。

確かに歌が巧いのだけど、

どう考えても、人間的な上手さではない。

録音の時に、巧く編集してしまってるのだと思う。

あまりに精巧すぎて、人間以上になってしまっていた。

人間は精密さより、もっと敏感なもの。

あえて、『巧い』と『上手い』の漢字を使い分けたけど、

こんな音楽が街に氾濫してしまうと、

耳が、巧いと上手いを聞き分けることが出来なくなっていくんじゃないかと、

心配になる。


知人が、娘を画家に習わせたくて頼みに行ったけど、

「子供に絵を指導してしまったら、個性をつぶしてしまうことになるから教えられない。」

と、断られたそうだ。

知人のイラストレーターは、

絵は、とにかくいっぱい描くことだよ。と言ってた。

それと、子供のうちからいっぱい絵を見せること。

そうしたら誰でも上手くなるよ♪と。


選挙に行きましょうも、

巧い演奏も、

間違っていない。

なんでも受身で素直でいい子ちゃんで、

それでいいんだけど、

それでいいから困るんだな。