エピクロスの園
- 作者: アナトールフランス,大塚幸男
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 1974/09/17
- メディア: 文庫
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アナトール・フランス(1844~1924)には芥川龍之介から辿り着いて、
寓話『バルタザール』で、心をもっていかれた。
そのバルタザールの元になったものを、この本の中で見つけた。
アントニウスの人形芝居。
アナトール・フランスは、この人形芝居から確信を得る。
地球が住めるものであり、人生が生きるだけの価値があるのは悪と苦悩とのおかげなのである。
されば悪魔についてあまり嘆いてはいけない。
悪魔は偉大な芸術家であり、偉大な科学者なので、少なくとも世界の半分は悪魔が造ったのだ。
そしてこの半分は他の半分の中に緊密に嵌めこまれているので、
前者を傷つければその同じ打撃によって後者に同様の損害を与えることにならずにはいない。
私が『バルタザール』に感銘を受けたのも、
主人公バルタザールが悪に打ち勝ち、苦悩の中から自らの生きる道に目覚めていく姿だった。
シバの女王という悪の存在があって、物語は成り立ち、悪と苦悩の存在が私に喜びをもたらしたのか。
アナトール・フランスがほんの少しだけ見えた気がする。
なんのフィルターも通さず、自分の目で宇宙をみている、そんな人。
だからこの人の言葉は恐ろしい。
試煉は万人にとってひとしくはない。
生まれたかと思うとすぐ死ぬ子供や、白痴や、狂人にとって、人生の試煉とは何であるか?
これらの反対意見にはすぐ答えられてきた。
今も常に答がなされているが、
あれほどたびたび答を繰り返さなければならないところを見ると、
答は非常に立派なものではないと思わなければならない。
人生は試験場のようなものではない。
人生は、むしろ広大な陶器製作所に似ている。
ここでは何のためだかわからない用途のためにあらゆる種類の器が造られているが、
それらの器のいくつかは、鋳型の中でこわれて、一度も使用されることなく、
価値のない破片として投げ捨てられる。
そしてそれ以外の器は馬鹿げたことや嫌悪を催させるようなことにしか用いられない。
こうした壺が、われわれである。
なんと冷え切った目なんだろう。
何が錯覚なのかが、わからなくなる。
所詮、価値もなく空虚な器。
価値も意味も無いものが、世の中で様々なことを引き起こしているということなのかな。
捉えどころのないこの空虚さ、
この社会で毎日のように起こる悲惨な出来事。
でも、だから必死に生きなければ生きていけないんだろうなぁ。
アナトールが子供の頃先生から聞かされた寓話。
ある精が一人の子供に糸毬を与えて言う。
「この糸はお前の一生の日々の糸だ。これを取るがよい。
時間がお前のために流れてほしいと思う時には、糸を引っぱるのだ。
糸毬を早く繰るか永くかかって繰るかによって、お前の一生の日々は急速にも緩慢にも過ぎてゆくだろう。
糸に手を触れない限りは、お前は生涯の同じ時刻にとどまっているだろう。」
子供はその糸毬を取った。そしてまず、大人になるために、それから愛する婚約者と結婚するために、
それから子供たちが大きくなるのを見たり、職や利得や名誉を手に入れたり、
心配事から早く解放されたり、悲しみや、年齢とともにやって来た病気を避けたりするために、
そして最後に、かなしいかな、厄介な老年に止めを刺すために、糸を引っぱった。
その結果は、子供は精の訪れを受けて以来、四カ月と六日しか生きていなかったという
合理化を突き詰めるとこうなる気がする。
寓話は、すごい。
子供にもわかる簡単なあらすじに、とてつもない大きな宇宙が無造作に放り込まれてる。
恐ろしいものと、その奥に潜む優しさ。
無駄を省いていくと、こういうことになる。
最終的には、生まれたらすぐ死ぬのが一番合理的という結論に辿りつくのかも。
人生の4ヶ月と6日以外は、平凡で退屈で、苦痛な日々にすぎない。
生涯に散らばる数々の感動は、緩慢で退屈で苦痛な日々から生まれる。
病気で苦しむ中から、
失恋して悲しみくれる中から、
単調に繰り返される毎日の片隅から、感動は生まれる。
悪魔や苦悩についてあまり嘆いてはいけないというのも、うなづくことが出来る。
地球の表面に突如として起きたように見える変化も、
実は突然の大変動によるものでなく、
眼に見えぬ長い期間の緩慢な諸原因の結果である。
変化は、
不断に行われる時には、眼に見えないものである。
地球におこることも、人に起こることも、昨日今日の原因ではない。
こんなことも書いてある。
科学が100%解明出来ていないのだから
奇跡というのも、
自然現象の1つだと。
この世は、どんなことも起こりうる。
どんな単純な思想も、どんな本能的な行為も、予測できない結果をもたらすものなのだ。
君は知性や、科学や、工業だけがその手でもろもろの運命の糸を織り成すと思っているが、
それは、知性や、科学や、工業に敬意を表するも甚だしいことだよ。
われわれの意識しないもろもろの力も一つならぬ運命の糸を蔵しているのだ。
山から落ちてくる一つの小石も、それがどんな結果を産むかを誰が予見できよう?
その結果は人類の運命にとって、フランシスベーコンの「自然の解釈の為の新方法」の公刊や、
電気の発見よりもずっと重要なものであるかもしれないのだ。
歴史とは大きなことが大きいことでないんだな。
つまらぬ自分の投げた小さな小石が
その後どれほどの影響をもたらすか、予測不能。
予測不能だらけのこの世の中を理解出来るなどと思わない方がいい。
われわれは本を読む時には、自分の好きなように読む。
本の中から自分の読みたいことだけを読む、というよりもむしろ
自分の読みたいことを本の中に読む。
芥川龍之介の侏儒の言葉は、この本が根っこにあるというのが感じられる。
この本から紡ぎ出される言葉の糸は怖いけど、たぐり寄せられてしまう。
芥川龍之介は10代の頃好んで読んでいたようだけど、
私はようやくこの歳で辿り着いた。
人と比べても仕方ない。マイペースでいこう。