悠久の片隅

日々の記録

<a href="http://ameblo.jp/fujiko-diary/entry-11288729616.html">死生観</a>

>死は自分のものでなく、家族を含め周りのもので

>周りが納得してはじめて死である、と。

吉本隆明は、1度海で溺死しかけてます。

瞳孔は開きかけ、体は硬直し、それでも一命だけは取り留めることが出来た。

柳田邦男は、

死んだ本人を一人称の死。

家族、恋人、にとっての死は、二人称の死。

その他の人にとっての死は、三人称の死と言いました。

脳死問題になると、二人称としての死が問題になってくる、と。

本人(一人称)は意思表示がないのですから、死は二人称に委ねられるしかない。

吉本ばなな(娘)が書いています。

*吉本ばなな*

「父は重篤な後遺症を得て、命をながらえた。

しかしそのできごとのあと、父の人生は困難なものになった。

何回か「お父さんはあのとき、海で死んだほうが楽だったかもしれない、

なぜこんな試練を父は味わわなくてはいけないのだろう?

仕事に生かすためならまだ理解できるが、もう仕事もできなくなった年齢でも肉体的に

ひどい苦しみをもってただ生きていくのはどんな気持ちだろう?」

まわりはなんでもいいから生きてほしいのでいい。

しかしたいへんな障害を背負って生きていかねばならない父本人は、どうなのだろう。」

今は医療の発達により、二人称に委ねられた命のことも含めて考えていく時代でもあって

人の命をこの手に預かるというのは、あまりに責任が重過ぎて考えても考えても私には結論が出ません。

>また、死は生の延長線上にあるものではなくて

>全く別の次元に位置して、

>生から死までの全体を照らしてる、と。

抽象的ですね・・・

あくまで私感になりますが。

死は、生をあきらめたところにあるものでなく、

照らすと言っているので

生に死にも、そのどちらにも尊厳があると言ってるのではないでしょうか・・・

吉本隆明の死生観がわからないので、あくまで文の上からだけの想像ですが。

生に負けて死ぬわけではなく、

生きることが必須でありますが 死ぬこともまた必須の時がある。

同じように照らしているのなら、等しく価値を認めるものなのかと。

一命を取り留めた時に、死も考えたように受け取れる言葉と私は解釈しましたが・・・

*吉本ばなな*

あの気持ち(父が死ぬかもしれない)は、裂け目から深く真っ暗な真実が見えてしまったときの気持ちだ。

死はとなりにあるなんてよく言うけれど、死がとなりにあるのではない。

真実がそこにあるのだ。

こんなに暗くて深いものを見たくないから、人は火を燃やしたり家を作って人の力で覆ったり、

心強くなれるものを集めたりしてきた。

でも、そんなことをしてもそれはなくならない。

地球が宇宙空間に不安定に浮いている水の星であるかぎり、

そのことからは深い意味では逃げられない。

*吉本隆明*

「自分の死というものは、僕は今度それに近い目にあったからわかるけど、

ちっとも苦しくなかったし、なんでもないから。

そのかわり、臨死体験もないし味もそっけもないものだ、

ただ意識がなくなっていなくなっちゃうというだけと思うので、なおさらそういうことを感じます。

自分の主観だけでいえば、歳をとるとだんだん人間は死がひとりでに怖くなくなっていきます

死とは、他人の死の印象によって怖いという意識をつくってしまうだけのことで

死については考えすぎる必要もないというのが相当確実な結論。

ただ、他人の死はそれなりにたいへんだなと考えたほうがいい。それは注意すべきことと思っています。」

死は怖くないよ。って言ってる。吉本隆明の優しさですね。

というか、娘に伝えたかったのかな。

娘は父親が死の淵にたってしまったことで、死に対しリアルな怖れを抱いた。

この言葉でその不安を取り除いてあげたかったのかも。

宗教を持ってる人たちは、死後に天国という観念がある。

でも日本人にはそれがない。

それは生きていく上で、大きなハンディキャップだと思う。

なので死は怖くなかったよ。と言ってくれたこの言葉は何より心強い。私はこの言葉に縋ろう。

吉本隆明に対しては、誰でも好き嫌いあると思うけど、それだけで語れるだけの人ではない。

こういう人が亡くなったことは、日本の大きな損失に思う。