悠久の片隅

日々の記録

若き数学者のアメリカ

藤原ていの『流れる星は生きている』は、学校の読書感想文で提出した記憶がある。

母親が幼い子供3人連れて満州国から引き揚げる話。

今でも引き揚げという言葉を聞くと、まっ先に38度線という言葉が思い浮かぶ。

あの時は38度線がいったいなんなのか、38度線のもつ意味もわからず読んでた。

子供を殺しながら、老人を見捨てながら、祖国へと逃げる道のりは、

人間の醜さをとことんえぐり出していた。

満州国でのことは、あまり話したがらない人が多いと聞く。

極度の餓え、ロシア人、中国人に対する恐ろしさは、

口に出来る哀しみや苦しさとして、まだ救いがあるが、

同じ日本人同士、人を押しのけ押しのけ逃げてきたことは、

語ることの出来ない良心の咎めとして癒される術がまったく無いことが想像出来る。

藤原ていは、1年かかって、子供を連れようやくふるさとにたどり着いたとき、

「私はこれでもう死んでもいい。」と思ったという・・・・・


新田次郎の小説は、10代の終わりには全部読んだんじゃないかな。

どの作品も山という特殊な場での壮絶な生と死が描かれている。

私が山に憧れと畏れを抱くようになったのも新田次郎を読んでから。

生まれて初めて読んだ歴史小説もこの人の『新田義貞』だったと思う。

一般的には評価の低い『武田勝頼』がたまらなく好きになったのもこの人の小説のお陰。

新田次郎歴史小説もいい。

私は半官びいきが強い。

成功者より、不器用な弱い者に心を奪われる。

成功者はすごいと思う。だけど、悲しみの多い者には物事の本質抜きに心を寄せてしまう。

勝頼には勝頼の苦しい思いがあるのだ。

そういう心を拾える新田次郎が好きだった。優しい人に違いない。

男は、成功者を好むかもしれないけど、女は、少なくとも私は違う。

勝頼には義経と同様、放っておけない純粋さゆえのどうにもならない悲しさがある、

そこにひかれる。


新田次郎藤原ていが夫婦だと知ったのはずっとあとのこと。

だいたい、私はろくにあとがきも解説も読まなかったし、下手すると題名も読まない。

いい加減な読者だった。

この2人が夫婦だと知った衝撃はすさまじかった。

十代の私の心に多大なインパクトを与えた2人の著者が夫婦という密な関係であることに

なんだか畏れ入ってしまった。

藤原ていの小説の中のシベリアに抑留されたご主人は、新田次郎だったのだ。

でも、それよりもっと驚いたのが、

その後、数学者藤原正彦国家の品格の著者)がこの夫婦の次男だと知った時。

生きるか死ぬかの引き揚げの時のあの子が、こんな日本を代表する数学者になっていたことに、

生きて、日本にこんなにも力を与える人になって、再度私の前に現れたことが、なんだか信じられない思いだった。

あの時(流れる星は生きている)、確か川を渡る場面があって、

母親のていが、子供を1人づつおぶって渡すのだけど、

この子が怖くて泣いて暴れて、それに対し母親が「泣き止まないならこのままに川に流すよ」と、

(曖昧な記憶だけど)そんな場面があって

あの時のあの子が、、、、、、、と、やはり胸がいっぱいになる。

人間、命さえあれば、というが、

命さえあれば、国を救う奇跡の人にもなりうる現実をみた思いだった。


藤原正彦の本をいきなり読むのと、

この人の母の本、父の本を読んでから読むのとでは、まったく違う。

人間は、まさしく唯一その人自身なのだけど、

その人だけで出来ているんじゃないということを強く感じる。

DNAを感じながら読むと、どうしようもなく胸が熱くなってくる。

岡潔(数学者)は言ってた「数学とは情緒です」と。

数学が情緒?と驚いたけど、

数学者藤原正彦も、情緒で出来ている。

藤原正彦の文章はそのことが随所に感じられて、どこもかしこも泣きそうになる。

そしてゲラゲラ笑える。


藤原正彦の教育理念

「一に国語、二に国語、三四がなくて五に算数。あとは十以下」

「教育の目的は自ら本に手を伸ばす子を育てること」

「自然科学で最も重要なのは美しいものに感動する「情緒力」で、数学的なテクニックじゃない。

幼いころの砂場遊び、野山を走り回る、小説に涙する、失恋するなど、あらゆる経験がそれを培う。

国は効率的に育てようというが、スキップして数学だけ学んでもうまくいかない。」

日本には、こんな素晴らしい数学者がいるのに、

日本の教育は、なんでこんなに残念な状態が続いているんだろう。

日本という国ではいかなる教育だって可能なのに、もったいない。


若き数学者のアメリカ (新潮文庫)

若き数学者のアメリカ (新潮文庫)

この『若き数学者のアメリカ』は、青年藤原正彦が初めて渡米した時の話。

もう国語の教科書も読まないでいいから、この本を読んで欲しいと、願う。

国語の教科書は、国語を勉強するものでなく、色々な作家と出会う最初の一歩の為のとっかかりであって欲しい。

とっかかりにならないなら、国語の教科書など無意味だ。

藤原正彦のすべてに同意出来るわけじゃないんだけど、

そういう理屈でなく、人間がそこにいる!泣いたり、怒ったり、勉強したり、遊んだり、その全部がいい。