悠久の片隅

日々の記録

是非もない

100粒ほどまいたヒマワリの種、

その中に1つだけ奇形があった。

新葉が袋状になって、それ以上展開出来ない。

かわいそうだけど、引き抜いてしまった。

残酷。

『是非もなし』信長の最期のことば。

仕方がない・・・

あれだけ自分のしたいようにしてきた信長でさえ、

最後は仕方がない。

いかんともしがたいことから逃れられないのが現実。

また、いかんともしがたい悲しみを徐々に過去のものとしてゆけるのも現実。


おごそかな渇き (新潮文庫)

おごそかな渇き (新潮文庫)

読了。

善と悪、是と非、愛と憎しみ、寛容と褊狭(へんきょう)など、

人間相互の性格や気質の違いが、ぶっつかり合って突きとばしたり、押し戻してまた突き当たったり、

休みなしに動いている。

こういう現実の休みない動きが、人間を成長させるのだ。

水を構成する分子の抵抗があるからこそ、花粉の粒子の運動があるように、

無数の抵抗があるからこそ人間も成長し、社会も進化してゆくのだ

ラストは絶筆『おごそかな渇き』

物語は、未完で終わっている。

この先、話がどのように展開するのかまったく予想もつかない。

でも、たとえ最後まで読めたとしても、読後は答えの無い世界を考え続けるように思う。

この作品は、他の9作品とはまったく異なり、

根っこが宗教であることが感じられる。

なので教訓ぽくもあるけど、

他の9作品を描いた山本周五郎の源流に何が流れているのか、

それを伺えるという意味でとても興味深く、未完であることが残念です。


少しでも自己に満足すれば、他者を見下し、

また別のシーンでは、見下す矮小な自分に悲嘆する。

色んな自分が混在し、

誰もが

それほど立派でもないし、

それほど見下される存在でもない。

シチュエーションが変われば違う顔が現れる。

人間に基準値はない。


人間が人間を嫌い、好き、愛したり憎んだりする「本質」はなんだろう。

東西の神話がいずれも混沌から始まっていること、ソドムとゴモラという想定の生まれるのは、

ここから出ているのではないか。

親子のあいだにさえ好悪や嫌厭がある、まして個性を持った他人どうしに、嫉妬や敵対意識や、

競争心や排他的な行動のあるのが当然じゃあないだろうか。

人間の生きかたにはどんな規矩もない、

現在あるようにあるのが自然なのだろう。

ソドムとゴモラのような世界が、人間生活といえるもので、

清潔で汚れのない世界は空想だけのもので、

汚濁の中でこそ、人間は生きることができ、なにかを為そうという勇気をもつのではないか。と。

(こんな自分ではダメだ)と思う時、

理想の自分が頭にあるのだと思う。

そんな理想の自分にこの先なれるのかと考えると、

この先、何十年かかっても無理な気がする。

人間は生も負も抱えている。いいとこばかりでない。

それだから人間なのだ。

ひとりひとりが理想の自分になれないということは、

この世界も理想にはならない。

正と負を抱えた人間なのだから、正と負の世界を生きるほかない。

核兵器をもつ人たちがいる。

核廃絶を訴える人たちがいる。

その混沌とした世界は、混沌とした自分によって作られている。

自分の中の正と負さえ、時と共に変わりゆくもの。

多分それが自然のなせること、ごくごく自然なことなのかもしれない。

でも、

それでは救いが無さすぎる。

だから山本周五郎は人間の情を書き続けたのではないだろうか。

正でも負でもない、愛とも違う人間の情。情け。

『将監さまの細みち』地味な話だけど、これなんだと思う。

自分の立ち位置。

弱くて情けない旦那を見捨て、常さんの元に走ることは出来る。

でもそれをしたらその先、自分で自分が許せなくなる。

そんな生き方は、彼女の中に無い。

青い鳥を追い求めはしても、

この手で掴まえやしない自分をずっとずっとわかっていた。

青い鳥は自分には過ぎたるもので、

青い鳥には青い鳥の幸せがある。

いざ、目の前に青い鳥が飛んできた時、彼女にはもう青い鳥の存在も必要なくなった。